影の響 Op.26
――續(ぞく)ある傳説(でんせつ)的山々にて
我々は何かを求めてゐる。
その事を我々は素晴しいと思つてゐる。
それに向つて歩く事を善しと思つてゐる。
しかし、その「何か」は「何か」であつて、決して幸福や平和ではない。
『異端者に非ざる異端者』より
§
一
四時間に一度、通るか通らないかといふ一臺(いちだい)のバスが、やつとその山々に覆(おほ)ひ被(かぶ)さつたやうな陰氣な村にたどり着くと、たつた一人の旅行者らしい客の若い男がそこに降りた。
バスは若い男を降ろすと、まるで何かを失つたやうに何處へ續いてゐるのか解らない荒れた道を、ひどく砂埃(すなぼこり)ばかりを上げながら、のろのろと走り去つて行つた。
若い男は、もう何年も作物の穫れた事のないと思はれる、荒れた田畑も向こうの幾つかの農家を見ながら、全くこの村は、地方に行つても直ぐには見つけられないやうな陰氣さがあると思つた。
それはよくある、若者たちが棄て去つた村といふ理由だけではなささうである。
それとも何とも長い旅での疲れが、この若い男にやがて来る死の匂ひのやうなものを感じさせたのであらうか。
冬支度の早いこの北國の村は、早くも夕闇が若い男の跫下(あしもと)まで暗くなるのに、さう時間はかからないかのやうであつた、
猟銃らしきものと天幕(テント)を擔(かつ)ぎ、少し大きめの鞄(カバン)を持つた男は、何處(どこ)から來たのか自分の横を通り過ぎて荒れた田畑の先にある、明りの燈(つ)いた數軒の家へと急ぐ、この村の四、五人の老人をぼんやりと眺めてゐたが、一瞬、寒さうに身震ひをして、外套(コオト)の襟を立ててから靜かに山の方へと歩きだした。
その男の眼には、何か切羽詰つたやうな一途に獲物を狙ふ決意が窺はれた。
しかし、それは獲物を追ひ詰めたといふやうな緊迫感とか、獲物を得る事が後は狩人(ハンタア)の腕次第といふやうな、これからの未來に明かりの射してゐる状態ではなささうであつた。
どうやら此處(ここ)が獲物を射止める事の出來る最後の場所で、ここでそれが確保出來なければ、この男の一生は無駄に終る事になるやうに思はせた。
しかも、此處にその獲物が存在するかどうかも、さうしてその獲物が何であるのかも解らないのであつた。
が、男はこれまでの一切を賭けて、一生を懸けて獲物を手に入れてみせるといふ決心――さういふ青春の終りの悲壮感のやうなものは感じられた。
男は、はらはらと木葉の落ちる木々の間へ、何かに憑(つ)かれたやうに消えて行つた。
――翌朝、灰色の空が果敢無いほど廣がり、山々を薄く包んでゐた霧は、濛(もう)つと村まで覆ひ盡くさうとして流れ込んで來てゐた。
突然、その靜寂を震はせながら、高々と銃聲(じゆうせい)が山々から谺(こだま)して來た。
鳥が幾つもの群れを成して、灰色の空へ不安氣に翔けた。
村の住人は、この數年來(すうねんらい)聞かれる事のなかつた、その平和を亂(みだ)す銃聲に、生活の不安や生命の危機を、いや、それよりもその銃を撃たせしめた狙撃者の内部に起きた、何かどう仕様もない決定的な變化(へんくわ)が、、村の老人達の内部の中へ、恰(あたか)もそれが移行して感染さへしさうに感じ出してゐた。
といふのは、この村は十數年前に狩猟地域として解禁の時期になると大いに賑はつた事があつた。
それが今から七、八年程前、狩りをしに來た親子があつて、その父親が自分の息子に撃ち殺されてしまふといふ事故が新聞種となつて、「悲劇の誤射」と報道されてゐた所、一人の刑事が家庭の複雜な關係と現場の不自然な状況とで、見事に計劃的な殺人であるといふ證據を把み、事件を際疾いところで幕にした。
その事件が、丁度、その頃から騷がれ出した、鳥を保護しようといふ小運動の引金となり、その波はこの地域を禁猟區域にまで取締られてしまひ、今ではこの村はさう云つた狩猟家の人々の記憶から惜しまれつつも、次第に忘れ去られてしまつたのである。
さういふ譯で、若者に見捨てられたこの村の老人達は、何年か振りに出現した若い男への驚きと同時に、それによつて齎(もたら)されたであらう銃聲に、救ひやうのない事態を感じたのである。
況して、現代のheroismが幾つも生み出した、若者の狂態を目(ま)の當(あた)りに報道されてゐるのを見せつけられてゐる事も、保守的な老人達の恐怖を募らせるのに充分であつた。
のみならず、この地方の氣候は朝が過ぎると急速に霧の晴れるのが常であつたが、その日は何故か午後になつても霧がただよひ、それどころか愈々(いよいよ)無明を極めて行つた。
村の家々の燈が點(つ)いてゐるので、まるで夕暮れのやうな暗さであるが、しかし、夕暮時とは違つてはつきりと明かりがみえるのではなく、霧の醸(かも)し出す獨特の雰圍氣に、村全體の燈がぼうつと悲し氣に搖れてゐる。
山々も麓の方は見えず、頂上の邉(あた)りから僅かな傾斜が薄黒く見え、あとに見えるものといへば、何百年も經(た)つて朽果てた樅の樹が一本、不氣味(ぶきみ)に、呻(うめ)き聲(ごゑ)でも出しさうな樣子を見せてゐるだけで、總(すべ)てが一幅の墨繪のやうにしづまり返つてゐた。
今朝の銃聲と、この不氣味さが手傳つてか、人々は屋外に出ようとはしないかのやうであつた。
かういふ地方には、何か得體の知れない物の怪でも棲んでゐさうに思はれたし、今日のやうな天候にこそ、さういふものの暗躍するのに相應(ふさは)しさうだつた。
村の近くを流れる音が、しづかに響いてゐた。
何處か上流の方に瀧でもあるらしく、水の落ちる音が幽(かす)かに聞えて來る。
暫くして、老爺(らうや)がまだ聞いた事もないやうな古いこの土地の民謠を、美しい節廻しで、しかし、若々しい聲で唄つてゐるのが小川のせせらぎに乘せて聞えて來たが、それは遙か山の峰々にまで沁み通るやうに流れた。
老爺は昨日、霧の爲に野良仕事をいつもより早く終へ、鍬やその他の道具を洗ふのを、今日の朝の出掛けにしようと思つたが、生憎(あいにく)、今日の朝方に銃聲が聞えた事と、この霧の爲に仕事が出來ないので、せめて使つた道具ぐらゐは洗つておかうと思つて出て來たのであつた。
銃聲がしたといふ朝の出来事があつたにも拘らず、この老人の振舞ひには、少しも怯えた樣子は見えなかつた。
恐らく、どういふ集團生活の中にも頑なに自己の意志を曲げずに、周りの人々から烟(けむ)たがられてゐる存在といふ人物が、必ず一人ぐらゐはゐるものである。
恰度、この老人がさうだと思はれた。
しかし、さういふ人こそが、時として他人の悲しみをよく理解してゐるのに驚かされる事がある。
ただ、悲しみを悲しみ、と思はないやうな人々には解らないだけである。
この老人も村人から冷遇されてゐて、今では村八分同樣であつたが、これはむしろ、老人自らが望んで村人から離れた生活を營むやうになつてゐるといへた。
老人が最後の鍬を洗ひ終へる間際になつて、老人の美しい聲も、次第に小さく霧に溶け込んで行くかと見えた時、
「おや?」
と云つて老人は立上がつた。
それは、まるで霧が川の中から發生するかのやうな錯覺に陷(おちい)らせて、霧が川面の水の流れに從つて近づいて來る中から、ふうつと黒々としたものが現れたからであつた。
老人が訝りながらよく見ると、真靑(まつさを)な顏をした。
まつはりついてゐた霧が、僅かに老人の周りから薄れた時に見た白い髪と顎髭(あごひげ)は、その恐怖の爲かと思はれた程であつた。
それは若い女の屍體(したい)であつた。
二
その日の内に現場檢證が行はれ、まだ霧の晴れないこの村の今までの靜寂は、何處で聞き出したのかと首を傾げる程の早さで集まつて來た、各新聞社やテレビ局の報道陣で奪はれてしまつた。
村人や記者達を必要以上に現場へ近づけないやうに、幾人かの若い警察官が立塞がつてゐたが、それでも後からあとから押し合ふやうにして詰めかけて來る記者達には、次第に撮影機器のフラツシユさへもが五月蠅(うるさ)くなりだして來た。
その時、その後ろの方から古くさい茶色の外套(オウバアコオト)を著(き)た、風采の上がらない、時折見せる鋭い目つきを除けば何處といつて特徴のない年配の男が、お洒落な黒い外套を著た若い男を從へて現れた。
「さあ、どいて下さい」
若い刑事のその聲(こゑ)で、一齊(いつせい)に總(すべ)ての人々の視線が一點に集められるや、記者や村人達はその年配の男を中心にして、どつと左右に分れて細長い通路をつくつた。
人垣の中を、若い刑事を從へた年配の男が歩き出した。
「會田刑事!」
記者の中の誰かがさう云ふや、記者達は忽ち若い男を從へた年配の刑事の周りに群がつた。
「會田さん! 死因は?」
「自殺ですか、他殺ですか」
「身元は割れてゐるんですか」
「會田さん!」
「會田さん!」
村の老人達は會田と呼ばれた刑事の名を反芻しながら、數年前に起きた親子の過失による殺人事件を解決した刑事である事に氣がつくと、急に驚きと尊敬の目で見つめ直した。
會田と呼ばれた年配の刑事は眼の前にゐる記者達を無視して、それがいつものこの刑事の仕種のやうに、まるで何物をも求められないのだ、といふやうな眼差しを空間に投げかけながら、
「いま來たばかりで、まだ何も解らんよ」
と事務的な口調で決めつけたなり、相變らず何處へ向ふのか解らないやうな空虚な足取りで、記者達を無視して歩き出した。
人だかりが煽られるやうにして道を開けた。
「あゝ、御苦労さまです」
「被害者は?」
「あそこです」
案内されて會田と若い刑事は、小川の側の白い布を被せられた被害者の前へ歩み寄つた。
草はしつとりと水氣を含んでゐて、蹈むと何かが泣くやうな音をたてた。
小川の上流からは今もなほ霧が流れて來てゐて、時々それと一緒に冷たい空氣が流れ込んで、この不氣味な場所を一層ぞくりとさせた。
「死後、九時間ぐらゐ經つてゐます」
「女はまだ若いな」
合掌してから被せてある布を捲(めく)つて遺体の顏を見終ると、會田刑事はさう言つて鑑識の男を見上げた。
「兇器は銃ですね。それも獵銃で、恐らく、密猟者の誤射によるものではないでせうか」
さういふ眼鏡をかけた風采の上がらない四十搦(がら)みの男に、會田は言つた。
「それは私が調べる。で、身元は確認出來たのかね」
「いいえ、いま調査中ですが、夜までには何とかしたいと思ひますが、ただ、著てゐる服からして都會の女らしいですし、これが水商賣の關係だと手古摺(てこず)るかも知れません。何しろ、身元を證明する所持品が何ひとつ見當(みあた)らないものですから。いま、この小川の上流も捜索してゐますが、この霧ですからねえ。」
會田は、暫く遺体の前に立つて默つてゐたが、
「どう思ふかね、寺田君」
と從へて來た若い男に聞いた。
「はあ」
寺田と云ふ若い刑事はさう答へて、
「まだ、なんとも言へないのではないでせうか」
と言つたなり默つて考へ込んでしまつた。
「どうですか、今、都會を騷がせてゐる、連續殺人事件に關係がありさうですか」
會田は鑑識の問ひに答へず、
「しばらく樣子を見てみるか」
と寺田に言つて、白と黒の斑(まだら)の髮の毛に手を持つて行つた。
「連續殺人事件の方はどうですか。手懸りは把めてゐるのですか。隨分、難航してゐると聞いてゐますが」
やや皮肉を込めた鑑識の問ひに、會田はもう何も答へようとはしなかつた。
連續殺人事件の起こりは、今から二年も前の事であつた。
事の起こりは東京の目黒のとあるアパアトから始まつた。
二階の二十一號室の居住者、影山美恵子、當時二十五歳が一週間ほど部屋に閉ぢ籠つたなり、一度も姿を見せなかつたので、管理人が部屋の集金もあつた都合から、聲をかけて見たが返事がなく、合鍵で室内を調べてもると、部屋の中は亂雜にも布團は敷きつ放しで、卓子(テエブル)の上にはかなり前に食べたと思しき二人分の茶碗や湯呑が散らかされてゐて、電氣釜のご飯は腐つてゐた。
しかし、影山恵美子の姿は何處にも見當らなかつた。
恰度、勤務先の部長だといふ四十搦(がら)みの男が來て、會社にも出勤してゐない事が判り、捜索願ひが警察へ届け出されたが、警察はこれを餘り大した事件とは思はず、よくある蒸發者の一人か、驅落ちでもしたのだらうと簡單に決めつけてしまつた。
三日後、靜岡縣で牛乳配達の少年が新聞紙に包まれてゐた左腕を發見し、女性のものである事が判明して、更に一日をおいて女性の胴體が名古屋で發見され、一週間の後に大坂驛前のコインロツカアの中から女性の片脚が發見されるに及んで、俄かに世間に騷がれ出し、各報道機関も鋭く世に訴へるやうになつてから警察が慌て出した。
が、その時にはもう第二、第三の殺人が起つた後で、警察はその犯行の跡を行つたり來たりするだけで、犯人の手掛かりは皆目見當がつかづ、見つかるのは被害者の無殘なバラバラ屍體(したい)だけであつた。
最初に身元が判明したのは、靜岡のある財閥の令嬢白澤和江(十八歳)であつた。
岡山で胴から離れてゐた首が見つかつたのである。
次に、大坂のある店に勤めてゐた水商賣(ホステス)の田川良子(二十七歳)が、熊本からの首の發見で特定され、問題の影山美恵子の首は高知で發見された。
腐爛の状態が他に比べて一番早い所からして、警察は影山美恵子殺しが初犯であると見たが、始めは警察側も、事件の發端が眞逆(まさか)そんな所から起つてゐるとは氣がつかず、事件をみんなそれぞれ別個のものとして扱つてゐて、同一人物の犯行だと發表出來たのは、高知で影山恵美子の首が發見されてからであつた。
しかし、それはもう事件が起つてから、半年が費やされてゐた。
その後、事件の手懸りは何も把めない儘、四名の遺體が發見されるばかりであつた。
報道機関も事件の核心に觸れられないので、勢ひ警察への攻撃へ矛先を向けざるを得なくなつた。
姿なき魔の殺人鬼!
理由なき殺人!
行きづり殺人?
日本警察の怠慢、スピイド違反しか捕まへられず!
市民の警察に不信募る!
さういふ新聞や日々の抗議の電話に惱まされながら、警察にやつと一つの手懸かりが見つかつた。
それは各被害者の周圍の證言で、一人の若い男が浮び上がつたのである。
警察は氣を良くして、早速、合成寫眞(モンタアジユ)を全國に配つたが、その一箇月前に三重縣から、飯田幸子(二十四歳)といふ鳥取の女性の首が發見されるや、ぱつたりと屍體の發見がされなくなつた。
犯人の犯行が巧妙になつたのか、それとも犯行を何らかの理由でしなくなつたのか、警察は首を捻るばかりであつた。
一般に犯罪といふものは、次第に大膽になつて行くものである。
最後には、結局、人に見せびらかすやうな犯行をして、警察に自らを曝露してしまふのである。
今までの殆どの犯罪がさうであつた。
しかし、今度の犯罪は違つてゐた。
犯行は一年に渡つて續けられ、十五人の屍體が發見されたにも拘はらず、警察には何らかの手懸りらしきものを殘してゐなかつた。
屍體が發見されなくなつてから半年後、會田刑事は署長に呼ばれて、この事件を擔當(たんたう)する事になつた。
事件は、若い男の犯行といふこと以外は何も把めないまま迷宮入りするかと思はれ、警察の面目は丸潰れで市民の不信を買つたなりであつた。
どうにもならなくなつた事件は、いつも會田刑事の所へ持つて行かれた。
これまでにもさういつた事件を幾度となく押しつけられては、こつこつと足と時間を費やして、結局、鮮やかに解決してしまひ、刑事には珍しく世間に名前が賣れて評判も良かつた。
署長に呼ばれて、
「また、頼む!」
と言はれて、會田は靜かに、
「もう私も年ですからね。餘り期待はしないで下さい」
と、俯き加減のいつもの眼差しを空間に投げかけてゐた。
署長は、打消すやうにして言つた。
「まあ、さう言はずにやつてくれ。會田――」
「――さん。會田さん!」
「うん?」
會田は、ふつと我に歸つた。
霧は相變らず總てを包んで、小川の流れは心臟が脈打つやうに幽かに響いてゐた。
「なんだ、どうした、寺田君」
「えゝ、今、村の五人の老人が、一昨日、若い男がこの村に來たのを見たと言つてゐるんですがね」
「何、本當か」
「こちらに呼びませうか」
「いや、ことらから行く」
會田は、薄ぼんやりと霧の中に浮んでゐる焚火の方へ向つた。
焚火の周りでは、赤と黒の明暗のある新聞記者達が何やら話合つてゐる姿が見えた。
それは何か、昔に聞かされた鬼の密談のやうな神秘めいたものを感じさせた。
會田は、霧の中に浮んでゐる焚火の明りを見出したその時だけ、僅かに生甲斐を感じたかのやうに、霧の中の明りから目を離さうとはしなかつた。
「寺田君、ここで良いよ。餘り向かうへ行くと、記者連中が五月蠅いからな」
「ぢやあ、連れて來ます」
「頼むよ」
會田は、物憂げに焚火の炎を見詰めてゐた。
勢ひよく燃えて彈ける小枝の音に、會田は自分の失つてしまつたものを聞いてゐるやうな思ひだつた。
寺田に連れられて、村の五人の老人が不安さうな物腰で會田の前へ來た。
「夕べ、若い獵銃を持つた男がここへ來たといふんだな。もう一度僕に言つた事を、繰返して下さい。
五人の老人は押默つたまま、會田の顏を見てゐた。
「どうしたんですか。さつき言つた事を言へばいいんですよ」
「寺田君、さう言はずに」
會田はさう言つて、
「どうぞ話して下さい。出來るだけ詳しい事が知りたいのです。但し、正確にお願ひしますよ」
と老人達に言つた。
「あ、あれは、昨日の五時過ぎだつたと思ひます。野良仕事を終へて、今、ここにゐる五人で家に歸(かへ)りました。途中、恰度この邉(あた)りで若い男が一人で立つてゐるので、薄つ氣味が惡くて、急いで通り過しました。何しろ、ここんところ若い男なんて見た事もなかつたもので、それで、矢張、氣になりまして、振返つて見たのですが、その時には、もうその若い男はゐませんでした。儂(わし)らは嫌な事が起るんぢやないかと思つとりました。さうしたら案の定、あれは確か朝の六時頃だつたと思ひますが、銃聲がこの山や村を覆ひ盡すやうに響いて、いえ、大袈裟ぢやありませんよ。本當にその音に押魂消(おつたまげ)たんですから。でも、それは一度だけで終りました。それから晝(ひる)近くになつて、源藏といふ少し變り者の男が、若い女の屍體を見つけたと言つて來まして、儂らで警察に屆け出たんです」
老人は時々、他の仲間の反應を確かめるやうにして話終へた。
會田は相槌を打つやうに首を振りながら,
「ふうむ、で、その若い男の特徴は覺えてはゐないですか」
「何しろ暗かつたもので、はつきりとは解りませんでしたが、背は一米(メエトル)七十糎(センチ)ぐらゐで、髪は長く、彫の深い顏をしてゐたやうに思ひます。身體(からだ)は全體にほつそりとしてゐました」
會田はそれを聞くと、徐(おもむろ)に背廣の内側から一葉の寫眞(しやしん)を取出して、五人の老人に見せた。
「この男ではなかつたかね」
老人達はそれを見ながら、全員が見終つても暫く何も言はなかつた。
「どうだらうか、正直に言つてもらひたい」
「へえ、どうもこの男かどうか、正直言つて、先程も言ひましたやうに、暗かつたものですから、この男のやうな氣もしますし、また違ふやうな氣もします」
「みなさんは、どうですか」
「はあ、同じです」
「あなたは?」
「同じです」
會田は、どんな細かい表情も見逃さないぞといふやうな鋭い目をして言つた。
「ぢやあ、みなさん。同じ意見と見て宜しいですね」
「はあ」
「さうですか、解りました。また後日、參考の爲に聞く事があるかも知れませんが、その時はお願ひします」
「ぢやあ、儂らはこれで失禮してもいいのですね」
「えゝ、良いですよ。どうもご苦勞さまでした」
「どうも」
老人達は恭しくお辭儀(じぎ)をすると、焚火の方へと立去つた。
會田は、また焚火の炎に魅せられたかのやうに、その搖らめく樣を眺めてゐた。
「會田さん、どうしますか」
會田は、これまでに見た事もないやうな疲勞の色を見せた。
「今日は、これで終りだ。ぐつすり寝よう」
「はい」
寺田はいつもの若者らしい返事をして、老刑事の後に從つた。
寺田は、この老刑事と相棒(コンビ)になつてから足かけ五年になつてゐた。
その間、この老刑事が迷宮入りの難事件を幾度も鮮やかに解決するのを見せつけられてゐて、秘かに尊敬してつき從つて來た。
しかし、今度の連續殺人事件だけは、擔當して半年が過ぎても何の手掛かりが把めないので心配だつた。
會田自身も、もう年だからと言ひ出してゐる事に、寺田は答へようがなかつた。
こんな時にこそ役立ちたいと思ふのだが、結局、この老刑事に從ふより外になかつた。
會田は寺田を從へて、焚火の側へ行かうとしたがて、まだ新聞記者達が殘つてゐたので、思ひ止まつてその側を通り拔けようとした。
「會田さん」
その時、さういふ低い聲に呼び止められて足を止めた。
振返ると、それは東京の京横新聞の記者だつた。
「何だ、新井君か」
「何だは、ないでせう」
「どうして、またこんな所まで」
「ヘツ、ヘツ、會田さんの翳(かげ)に特ダネあり、つてね」
「女ぢやないんだから。それに、ここへは保養に來たやうなもんだから」
「駄目駄目、そんな事を言つても。會田さんとは十年來のつき合ひなんだから。會田さんがどういふ人間かは、よく知つてゐるつもりですがね」
「新聞記者とのつき合ひはないよ」
「まあ、さう言はずに。で、どうですか、事件の方は」
「その内ね」
「期待してますよ」
「君から慰められるやうでは、もう終りだな」
「どんでもない。ただ、わたしは――」
「いいよ、今日はこれぐらゐで許してくれ」
會田はさう言つて、煙草を取出した。
寺田と新井が、即座にライタアの火をつけてだした。
會田は口を歪ませながら、燐寸(マツチ)を取出して自分で火をつけた。
寺田は火を消して、ポケツトにしまつた。
新井はつけた火で、自分が煙草を喫つた。
「行かうか、寺田君」
「はい」
新井は焚火の側に立つた儘、二人の刑事がさまよふやうにして霧の中に消えて行くのを見送つてゐた。
まるで自分の行く所をうしなつたかのやうに……。
三
驛の側にある小さな旅館に、會田と寺田は泊つてゐた。
蒲団の中に入つて眠られぬ儘に、會田は今日の老人達の話の中に出て來た源藏といふ老人に明日は會はうと思つた。
會田は、白と黒の斑(まだら)になつてゐる髪の毛を指で掻き分けた。
僅かに殘つてゐる黒い髪が、二、三本、手の上に落ちた。
「會田さん」
急に、横で寢てゐると思つてゐた寺田が話しかけて來た。
「なんだ、まだ寢てゐなかつたのかね」
「えゝ、眠れないのです。
寺田は少し言ひ淀んだで、
「今度の事件、關係があれば良いのですがね」
寺田ははつとして、
「濟みません」
「いいんだよ。無理もない、もう半年が無爲に費やされているんだからね」
會田は、眩暈(めまひ)のするやうな疲労感に襲はれた。
寺田は默つたままである。
「寢るか」
「はい」
會田はその聲を聞くや、忽ち深い眠りに陷(おちい)つて行つた。
それからどれほど經(た)つただらうか、會田は號笛(サイレン)の音で目を覺ました。
「寺田君、起き給へ」
「はい、なんですか」
「事件のやうだ」
會田は服を着替へながらさう答へた。
號笛は旅館の前で止まつた。
會田は階下へ降りて外へ出た。
霧は晴れてゐて星が美しかつた。
地元の警察官が會田の前へ来て言つた。
「會田刑事ですね」
「あゝ、さうだが」
「實は、問題の若い男が捕まりましたので、取敢へずお知らせに來ました」
「さうか」
「どうしますか」
これぐらゐの事で號笛を鳴らさなくても良からうものを、と思ひながら、
「行かう、寺田君。乘り給へ」
「はい」
車に乘りかけて會田は振り返つた。
「あ、心配いりません。私に用があつて來たのですから」
玄關に集まつた店の主人や宿泊客にさう言ふと、會田は車に乘り込んだ。
地方の寂れた夜の街を走つて行く車の中で、以外に早い事件の幕切れに、會田は何か引掛かるものを感じてゐた。
署に着くと、もう記者達はその前を押合ふやうにして集まつてゐた。
「さあ、どいて下さい」
寺田はさつきと同じ事を記者達に向つて、言はなければならなかつた。
「こちらです」
案内されて入つた取調室に、二人の男が机を前にして向かひ合つてゐた。
一人は、夜中に出合つたら氣味が惡くなるほど青白く、目鼻立ちは、はつとする程整つた青年で、もう一人は四十搦みで、でつぷりと太り、本人は頗るお洒落のつもりらしく、派手なネクタイをしてゐた。
刑事が椅子を軋ませながら若い男を調べてゐるのだが、手古摺つてゐるやうだつた。
若い男は落着いてゐて、うつかりすると調べてゐる男の方が、その態度に呑まれて苛々してゐるやうに見えた。
「部長、大石部長!」
その所爲か、さう呼ばれてやつと人が來てゐる事に氣がついたやうだつた。
「やあ、會田刑事、來てをられたのですか。どうも恥かしい所をお見せしまして。どうぞ」
大石は額の汗を手巾(ハンケチ)で拭つた。
「今来たばかりです」
さう言つて、會田は若い男の顏をじつくり見てから、失望の色を全身に浮べた。
「部長、暫くこの若者を私に預けて下さい」
「いいでせう、他ならぬ會田さんの頼みですからな」
「よろしく」
その言葉が終らない内に、他の二人にも合圖して、大石は取調室を出て行つた。
會田は寺田に扉を閉めさせてから、机を眞中にして、若者の前に坐つた。
「名前は?」
「――」
「名前はと云つてゐるんだ!」
「いいよ、寺田君」
「はあ」
「默秘權かね。それも良いだらう」
「――」
「しかしね、今、君には殺人の疑ひがかかつてゐるのだよ」
若い男が顏を上げて、會田の視線と合つた。
一瞬、その湖のやうに澄んだ瞳に、會田は驚かされた。
「こいつは、ひよつとすると、まだ解決がついてないかも知れないぞ」
會田は、ふつと心で呟いた。
「君は、いつこの村に着いたのかね」
「昨日です」
「ほう、口は利けるんだね」
「そのやうです」
「で、この村には、何か用事でもあつたのかね。それとも氣まぐれかね」
「氣まぐれ、といふ事だけはないやうでした」
「でした?」
「えゝつ、僕にも正直に言つて、用事があつたとは言ひ兼ねます」
「さうか。では、昨日の朝は何處にゐたのかね」
「寢てました」
「何處で?」
「あの村から一粁(キロ)離れた、小川の側の天幕(テント)の中で」
「何時まで」
「前の晩の八時頃から、翌朝の四時まで」
「君は、獵銃を撃つただらう」
「えゝ」
「何時頃」
「六時頃です」
「うむ、ぴつたりだ」
「――」
會田は、若い男の一寸した表情も見逃さないやうに見詰めた。
「昨日の朝、六時頃に、女性が殺されたのだよ。それも獵銃でね」
「さうですか」
「さうですかだと、とぼけるのもいい加減にしろ! さつきから默つて聞いてゐたらいい氣になつて」
「寺田君。あまり机を叩くなよ。君が興奮しても始まらないよ」
「はい。しかし、この男が警察を馬鹿にするのに、我慢出來ないんですよ。人殺しの癖に」
「さうだね。ただし、犯人ならばだがね」
「えゝつ! ぢやあ、會田さんはこの男が犯人ではない、といふんですか」
「さうは言つてゐない。が、今、現場を調査してゐるから、詳しい證據も見つかるだらう。さうすれば、この青年の白黒の決着がつくだらう。ねえ、君」
若い男は何も言はずに、滿足さうな顏をしてゐた。
會田は安心したやうな面持ちで、煙草を喫つた。
その時、扉が叩かれた。
「どうぞ」
大石が入つて來た。
「あつ、部長。何か」
「大變な事になつたよ」
「また、事件ですか」
「さうなんだよ。今、あの現場を調査してゐる者から聯絡があつてね。現場から二粁ほど離れた小川の近くで、鳥の屍骸が見つかつたのだよ。それも獵銃でね。聞いたかの知れないが、この地方には、昔から平安鳥といふ、いはゆる幻の鳥の傳説がありましてね、その鳥を捕へた者はなんですか? ほら、その、幸福になれるといふのですな。しかし、それはこの村の人にも忘れられてしまつた傳説なのですから、一部の學者以外は、滅多に來ないのですよ。まさか、學者がそんな事をする譯はないでせうが、今度の事件はどうですかな」
「恐らく、さうではないでせう」
「こんな不祥事は、私がきてからでも、初めてですよ」
「それで」
「えゝ、死後、推定二十時間ぐらゐ經つてゐますかな」
「大石部長! それぢやあ、女性が殺された時間と同じではないですか」
寺田は、さう言つい驚いた。
「ふうん、厄介な事になりましたね」
しかし、會田は解つてゐた、といふ風な態度を示した。
「では、この男が女と鳥を殺したとしか思へませんね。少なくとも、どちらかはこの男の仕業でせうね」
寺田のいふ事に耳をかさずに、會田は若い男に質問した。
「君は獵銃を、何度使用したのかね」
「一度だけです」
明快な事へだつた。
會田は大石の顏を見た。
大石は、こくりと頷いた。
寺田が顏を輝かせながら、會田に近づいた。
しかし、會田は、
「いまからもう一度、私達も現場の近くを捜査して見ます」
さう言つて、その部屋から出て行かうとした。
その時、
「この男は、拘留しておいていいのですな」
と大石から言はれて、
「勿論ですよ。女は殺してゐないとしても、鳥の方は解りまでんからね」
會田はさう答へて、また一寸考へるやうにしてから、ニヤリと口を歪ませた。
「これで案外、早く連續殺人事件の片がつくかもしれませんよ」
會田は、その言葉を殘して扉の外へ消えた。
四
霧が巨大な白い生物のやうに動いて樹木の影を僅かに止めてゐる中を、會田と寺田は手探りをするやうに移動してゐた。
署の大石と別れてから、直ぐにこの現場に向つた。
會田はまだこの殺人現場附近に、殺人犯が隠れてゐると睨んだのである。
あの青年が法を犯すとしても、精々鳥を撃つぐらゐだ、と長年の刑事生活を經(へ)て來た會田に直感が閃いた。
それに幸福の鳥を捕へるといふ事が、如何にも青年らしい浪漫主義(romanticism)に滿ちた世界だ、と感じたからだつた。
さうして、恐らくもう一人の別の男が逃げきれずに、まだこの邉りに潛んでゐた、その男こそが今度の女性殺しの犯人で、もしかすれば、いま手掛けてゐる連續殺人事件の犯人と、同一人物であるかも知れない、と會田は話をここまで結びつけたのであつた。
會田と寺田が二人してここに來た時は、美しい星が輝き、殺人の行はれた後といふ生々しさはなかつた。
しかし、軈(やが)てその光も虚しく薄れ、夜の空が白み初め、捜査が捗るかと思つたところへ、急に視界を霧に遮られたのである。
生憎、二人はこの爲の用意を何もしてゐなかつた。
僅かに、懷中電燈を二つ持つてゐるのみであつた。
「會田さん」
「なんだね」
「連續殺人事件も、いよいよ山場を迎へましたね」
「いや、まだ判らんよ。今のところ、五分と五分だよ。だけどさうであるやうに、願つてはゐようぢやないか」
「さうですね」
會田は煙草を銜へて、燐寸(マツチ)をつけた。
霧の中に、ぼうつと赤い火が小さく浮び上がつた。
會田の口から、濛(もう)つと霧のやうな煙が出た。
燐寸は、火がつけられたまま地面に捨てられた。
「おや?」
會田は一瞬の内に、その燐寸の火に照らし出された地面に、何か光るものを見つけた。
「寺田君、明りを」
「はい」
寺田の持つた懷中電燈が、地面を照らし出した。
「こ、これは、空罐(あきかん)ぢやないですか」
「うん、ここはあの現場から、どれぐらゐの所だらうかね」
「さあ、約ニ粁は離れてゐるとは思ひますが」
「それ位だらう」
「さうしますと、これは、あの男の所持してゐた物ではない事になりますが」
「しツ、しづかに」
會田は寺田の言葉を遮つた。
灌木の繁みの中から、何かが動いた氣配を感じた。
「誰だ!」
木々の枝や叢(くさむら)をかき分けて、雨外套(レエンコオト)に長靴といふ物々しい姿で現れた數人の男達に、二人は數個の探照燈(サアチライト)を向けられて、眩しさうに手で光から逃れやうとした。
「誰なんだ!」
「會田刑事ですね」
一番前にゐる音から言はれて、
「さうだが」
全員の持つてゐる探照燈が下に向けられ、二人の持つてゐた懷中電燈が照らし出したものは、地元の警察官達であつた。
「なんだ、あまり驚かさないで下さいよ」
「それは、お互ひ樣だよ」
氣がつかなかつたが、一番前にゐたのは大石部長だつた。
「また、どうしてここへ?」
「いや、てつきり今日の晝(ひる)から捜査するものとばかり思つてゐましたが、なんだか氣になりましてね。旅館に電話をしたら、ゐないといふでせう。慌ててここまで來たといふ譯なんですよ。都會の人は、朝に必ずといつて良いほど霧が發生する事を知りませんからね。この霧は地元の我々ですら、手を燒いてゐますからな」
「さうですか、それは助かりました。正直に言つて、これからどうしようかと思つてゐた所です。ねえ、寺田君」
「は、はい」
寺田は、一寸照臭さうに返事をした。
大石は笑ひながら、
「ハツハハ、さうでせう、さうでせう。さうさう、被害者の身元が判明しましてね。東京の新宿にある「蝶」といふ洋酒場(バア)の女主人(ママ)で、倉山好子、三十五歳に間違ひないさうです」
「さうですか。その線で何か手懸りになるやうな事はありませんでしたか」
「詳しい事は、何も判つてをらんやうですな。で、會田刑事の方は、何か發見出來ましたかな」
「いや、まだですが、これを見て下さい」
「ほう、空罐ですな。ここは殺人現場から二粁は離れてをります。あの若い男は一粁ほど手前に天幕(テント)をかまへてをります。これは調査の結果、判明してをります」
「その通りです。それは途中でも確かめてきましたからね」
「とすると、まだ別の犯人がゐるといふ事ですな」
「私もまた氣になりましてね。早速、來る事にしたんですよ」
「では、犯人はまだこの近邊に身を潜めてゐるといふんですな」
「えゝ、まだ今なら、何處にも行けなかつたと思ひますよ。今日の晝(ひる)に捜査を始めてゐれば判りませんがね」
「いや、參りましたな」
「しかし、一應(いちおう)驛の方にも注意しておいて下さい」
「判りました。ぢや、儂(わし)はこれから署へ戻りますから、驛の張込は安心しておいて下さいよ」
「お願ひします」
「あつ、それから他の者は捜査に役立つ者もゐると思ひますので、何でも言ひつけて下さい」
大石はさういふや、會田の禮の言葉も聞かない内に、三人の部下を從へて霧の中へ姿を消した。
會田は殘された警察官を見廻した。
「この近くに、絶好の隱れ場所はないだらうか」
さう言つて、
「もしもここの地理に詳しい者がゐれば、その附近を洗つて見たいのだが」
眞中にゐた三十代の大柄な男が、
「一つだけあります。本官はこの近くの村で生れましたので、小さい頃に遊んだ覺えがあります。あそこなら、隠れるのには打つてつけの洞窟だと思ひます」
「何、洞窟が! よし、そこへ行かう。案内してくれ」
「判りました」
「みんな、彼の後について行くんだ」
「ぢやあ、行つてくれ」
その警察官は、探照燈(サアチライト)の光を前方に投げかけながら歩き出した。
他の警察官がその後をついて行つた。
霧が幕のやうに途中で光を斷ち切つて、その一行の行方を包み込んだ。
霧の爲に、まるで平家の落人の亡靈でも竝んで歩いてゐるやうな、濕つた雰圍氣にさせた。
會田は、その警察官の一行の眞中で、外套(コオト)を著て顏を伏せるやうにして歩いてゐる男に目を止めた。
刑事のやうに見せてゐるものの、會田には直ぐにそれが誰であるか判つた。
「待ちたまへ、新井君!」
「ヘツヘツヘ、ばれたか」
新井は愛嬌のある顏をして、會田に近づいた。
「君には、降伏するよ」
「飯の種ですからね」
「それなら、私の後をつけ廻してゐたら、何も情報が把めなからう。却つて飯の喰ひ上げではないのかね」
「實は、そんな事はもうどうでも良いんですよ」
「樂しんでゐる譯だ。しかし、今から我々の後をついて來ると、命がけになるよ」
「判つてますよ」
「それなら良いがね。君の事だ、來るなと言つても聞くまい」
「流石は名刑事!」
會田は苦笑した。
一行は、霧の中をさまよふやうに進んで行つた。
軈て、村の側に續いてゐる小川の上流に沿つて、更に山の奧へと向つた。
「まだかね」
誰かがさう言つた。
「もう十數分のぐらゐの所にあります」
先頭の警察官が言つた。
「あつ、焚火の跡があります」
また誰かが言つた。
「明らかに犯人のものだ。まだ新しいな。よし、みんな氣を引締めて行かう」
會田は、さうみんなを勵ました。
「會田刑事」
新井が話しかけて來た。
「なにかね」
「いえね、今から五、六年も前の事になりますが、この山に殺人犯人を追ひかけて來た刑事の話なんですがね」
「あゝ、知つてゐるよ。何でも刑事と殺人犯が、谷底で手錠を嵌めたまま、屍體が見つかつたといふ事だつたらしいが、それがどうかしたか」
「こんな前人未到のやうな所に一人で蹈み込んだから、あのやうな目に遭つたんだと思ふと、ぞつとしてしまつて。でも、これだけ人數がゐれば、そんな事はないでせうね」
「なんだ、もう臆病風に吹かれたのかね。あの時も確か五人の刑事がゐた筈だつたがね。この霧で、はぐれただけなんぢやないか。そのあとの捜査で、四人の刑事の遺體も見つかつてゐたと思ふが」
「でも、あの時はなんの用意もしてゐなかつたからでせう、この霧の爲の」
「まあね」
會田がその言葉を言ひ終らない内に、先頭の警察官が叫んだ。
「あそこです!」
一行は、一瞬、固唾を呑んだ。
先頭の警察官の探照燈(サアチライト)によつて照らし出された前方には、風で霧が散らされて、そこだけが鮮やかに落葉した木々が、寒々とそそり立つてゐた。
その後ろに小高い丘があつた。
「あの裏側に、洞窟があります」
先頭にゐた警察官がさう言つた。
「よし、みんなであそこを包圍(はうゐ)しろ」
會田はさう合圖(あひづ)した。
一齊(いつせい)にみんなは、ぢりつ、ぢりつ、とその裏の洞窟へと近づき始めた。
會田の手際良い指圖で、その洞窟の周りは、忽ち包圍されてしまつた。
みんなはそれぞれが木々の影に隱れながら、洞窟の中の樣子を窺(うかが)つた。
會田が寺田と新井を從へて、洞窟の正面の樹木の後ろに隱れた時、ふつと洞窟の中に明りが燈るのが見えた。
「二人とも、見たかね」
「ええ!」
緊張した寺田と新井は、目を輝かせながら洞窟を見てゐるばかりで、さう答へるのにやつとだつた。
「洞窟の中に潜んでゐる男! おとなしく出て來い! お前は、もうすつかり包圍されてゐるぞ!」
會田は續けて叫んだ。
「お前を、殺人容疑で逮捕する!」
その聲が木々の間を縫つて行つた。
突然――。
洞窟の中から銃聲が響いて、會田は何か叫ぶが早いか、地面に身を伏せた。
彈は會田が伏せた後ろの樹木の眞中に喰ひ込んでゐた。
「氣をつけろ! 敵は相當に銃の扱ひに馴れた奴だぞ」
會田の大聲とともに、再び銃聲が響き渡つた。
「うるせえ! 捕まへれるもんならここまで來て見ろ! おらあ、誰にも捕まへられはしねえぞ!」
洞窟の中から、嗄れた男の聲がした。
それが途切れるや、會田や警察官達は何も施す術がなかつた。
「かうなれば、持久戰で行くしかありませんね」
新井が言つた。
「くそつ! ここまで追ひ詰めておいて」
「まあ、寺田君。犯人は十中八九、我々の手の内にあるよ」
會田はさう言つた。
霧は、相變らず山々を覆ひ隱してゐた。
五
小川のせせらぎが聞え、小鳥たちの囀(さへづ)りも、青空に現れた太陽を喜んでゐるやうであつた。
木々は、今にも夏の盛りのやうに、緑に芽吹くかと思はれた。
村の家々が、やつと明るい日射しの中に、その人々の住んでゐる營みの樣子を現した。
村の老人もいつか外へ出て、また先程、新たに聞えた三發の銃聲の理由を思ひ浮べてゐた。
そこへ何臺(なんだい)かの自動車が來て、新聞記者達が集まり出した。
老人達はまた殺人かと思つて、不安さうに新聞記者や撮影擔當者(カメラマン)を見てゐた。
すると、二臺の巡回車(パトロオルカア)が號笛(サイレン)を鳴らしながら現れて、十數人の警察官と大石部長が降りた。
新聞記者達は、忽ち大石の周りを圍んだ。
「どうなつたんですか」
うるさく寫眞機(カメラ)の閃光(フラツシユ)と言葉が飛んだ。
「どうやら捕まへた」
ぼそり、と大石が答へた。
「何處ですか」
「大石部長は驛を張込んでゐた、と聞いてましたが」
「さうだ、禁猟區域の鳥を撃つた男を逮捕したんだがね」
大石の發言で一寸靜かになつたかと思つたが、
「では、あの若い男が、連續殺人事件の犯人といふ事なんですね」
「どうなんです」
矢繼ぎ早に質問が浴びせられた。
「いや、今度の殺人と連續殺人事件との關係は、どうとも言へないだらうが、あの男に容疑があるのは間違ひはないね。今に吐かして見せるから、もう少し待つてもらふしかないね、君達には」
「どうも」
「どうも」
大石の答へに記者達は、早速、車に乘り込まうとした。
その時、
「あつ、あれは!」
といふ誰かの聲に、人々は一齊にその聲の發せられた彼方へ、視線を投げかけた。
小川に沿つてやもの方から、會田の率ゐる一行が現れたのに誰もが氣がついた。
その中に見馴れない口髭を生やした男が、手錠に繋がれてゐるのに眼が止まつた。
「馬鹿な!」
大石は思はず、さう叫んだ。
會田はゆつくりと、その男をつれて歩いて來た。
會田の犯人逮捕は長引くかと思はれたが、晝(ひる)近くになると俄かに霧が晴れ出して、太陽が現れるや、それは會田達に、以外にも有利な立場を齎(もたら)した。
地元の警察官の働きもさる事ながら、寺田と新井の活躍は頗(すこぶ)る勇敢であつた。
二人は霧の中を手探りで洞窟の兩脇まで行き着いて、辛抱強く機會(チヤンス)を待つた。
霧が晴れて、太陽の明るさに犯人が焦つて銃を撃つや、忽ち、その洞窟の中へ飛び込んで、彈込めの隙をついて二人で組伏せたのである。
他の者は、二人に從つて組伏す手助けをしたに過ぎなかつた。
大石の前に、會田が男を連れて立止つた。
「大石部長。お蔭でこの通り、犯人が逮捕出來ました」
會田はさう言つたものの、大石の顏が沈んでゐるのを見て、
「どうかしましたか」
と尋ねた。
「お目出度う、といひたいのだが、儂には判らなくなつたよ」
記者達も、呆氣にとられた顏をしてゐた。
會田が訝つて、
「なんです、何があつたんです」
「いや、我々はあれから驛を張込んでゐて、怪しい男を捕まへたんだがね」
「何ですつて!」
會田も新井も寺田も、驚いて次の言葉が出なかつた。
「その男は終始おどおどしてゐて、尋問の結果、鳥を撃ち殺したのは自分だと、我々に自供したんだがね」
「そんな! 我々だつてこの男に、女を殺したのは自分だと自白させてあるんだ! この男は三人で猟の爲にこの地へ来たんだが、その三人の内の一人の女をめぐつて、痴情の縺(もつ)れで逆上した男の一人が女を殺し、さらに女が愛してゐたと思はれる殘つた男も殺してしまつた。その男の屍體は埋めたといふので、それも確認して來てゐるんだ。あの女を殺害したのは、間違ひなくこの男だ!」
「ぢやあ、あの男は容疑者ではなかつたのか」
會田は、鄂然となつた。
「急いで署へ戻りませう」
誰もが事件の意外な幕切れに、蒼ざめてゐた。
會田達が署へ戻るや、若い男は直ちに釋放された。
勿論、無實であつた。
警察の追及が續き、二人の犯人の自供で銃を撃つた時刻が、偶然にも三人とも一致してゐたので一度しか聞えなかつたのだといふ事が判り、更に埋められた男は刃物で殺されてゐて、三角関係の縺(もつ)れの末路で、連續殺人事件とはなんら關係のない事を新聞記者達に發表し、鳥殺しの方はあの幻の鳥の傳説を小耳にはさんで、その鳥を標本にして高く賣りつけるつもりだつたとの自白を聞き、これはその道の素人の犯行であると判明して、ふたつの事件が解決したのだつた。
大石と會田が記者に取り圍まれて事件の眞相を發表してゐる時、若い男が署から出て行つた。
會田がそれに氣がつくと、寺田と新井に目で合圖した。
「では、私はこれで失禮します」
「おゝ、さうですか。どうもご苦勞さまです。今度の事件は連續殺人事件とは關係がなかつたとは云へ、會田さんのお蔭です。頑張つて下さい。また何かありましたら、いつでも」
と大石が慰めとも勞(ねぎら)ひともつかない言葉で、手を差し伸べた。
「えゝ、では、これで」
會田は、さう言つて署を出た。
署の前に寺田と新井が、タクシイをつかまへて待つてゐた。
「あの男は?」
「ほら、あそこの驛前のバスに乘り込みましたよ」
新井が指差した。
「何處へ行く氣なんでせうね」
寺田が言つた。
「判らんよ。さあ、我々も後をつけよう」
會田がさう言つて、タクシイに乘つた。
バスが動き出した。
バスの乘客は、青年ひとりだけであつた。
「つけてくれ」
會田は運轉手にさう言つて、バスを指差した。
タクシイは、殺人犯を捕まへるのにおよそ不似合な地方ののんびりした警察署の、灰色の建物を後にした。
冬を待つばかりの午後の日射しは、流石に物寂しさを邉(あた)りにただよはせてゐた。
バスは砂埃を上げながら、街外れの山道を登つて行つた。
後をつけてゐる一臺(いちだい)のタクシイの中では、誰も口を開いてはゐなかつた。
ただ、ラヂオから流行歌が聞えてゐたので、雰圍氣は暗くはなかつた。
「あの男、連續殺人事件に關係があるんですか」
新井が始めて口を開いた。
「いや、ないね」
會田が答へた。
「では、どうして」
寺田が訊いた。
「興味があるだけだ」
新井が押し殺すやうにして笑ふと、
「なんだね」
と會田が訝つたが、新井は堪へ切れなくなつて苦しさうに笑ひながら、
「な、なんだか、事件の時よりも生き活きと若返つてゐるやうですね」
「ひやかすな」
會田はさう言つたものの、あの青年が犯人でなかつた事に妙に安心したし、のみならず、青年の目の輝きの美しさに、何故か魅かれてゐたのは事實であつた。
自分の生涯の殆どは、犯人を追ひかけるだけの狩人(ハンタア)でしかなかつたが、あの青年が狩人として狙つてゐたものは、決してさういふ自分なんかの狙ふものとは違つてゐるものだと思へた。
況(ま)して、幻の鳥を追ひかけるといふやうな子供染みたものではなく、何か、かう生きるといふ事への切羽詰つたものを感じさせた。
それが今の自分の行動となつてゐる、と思つた。
軈(やが)て、バスは事件の報せのあつた村へ着いて、青年がバスから降りた。
バスは不相變(あひかはらず)目的のなくなつたかのやうにして、砂埃の中へ消えて行つた。
「犯人は必ず犯行現場へ戻つて來るつて、聞いた事があるけど、奴(やつこ)さん、こんな所へ何しに來たんでせうかね」
寺田がタクシイを降りながら、そんな事を言つた。
「なんでもないだらう。ここを離れる前に來た、といふ所なんだらう」
「ほう、よく判りますね」
新井が言つた。
會田は苦笑するばかりであつた。
村の老人が青年を見つけて、みんな家の中に閉ぢ籠つしまつた。
ふつと美しい聲が、晴れ渡つた空の下の山々に響いた。
源蔵といふ老人が唄つてゐるのだらう。
小川のせせらぎが、その唄と溶け合つた。
「いい所ですね、ここは」
「全くだ、歸るのが嫌になるね」
新井も寺田に同意した。
會田も、まだこれから連續殺人事件の犯人を捜査しなければならないといふ仕事を殘してゐたが、さうでなければもう少しここにゐても良いと思つた。
會田は默つて青年の後をつけた。
老人の唄は、さらに悲しい昔の唄を山々に聞かせてゐた。
青年が次第に山の奧へと歩いて行くや、今まで晴れてゐた空が急に曇り出した。
さうして、山々に響いてゐる唄も、暗く、歎きを訴へるやうに流れて來た。
恰(あたか)も、その悲しみが天に通じたかの如く、涙のやうな水滴を含んで霧が流れて來た。
會田達は霧に隱れさうになつて行く青年を見失ふまいとして、急いで後をつけた。
と、青年は小川の側まで行くと立止つた。
會田達も、どきつ、として立止つたが、青年から二 米(メエトル)ほどしか離れてゐなかつた。
小川のせせらぎが心地よく聞かれた。
會田は自嘲しながら、青年の側へ近づいた。
新井や寺田もそれに從つた。
「君!」
會田が青年に話しかけた。
青年は振返つたが、別に驚いた樣子もなく三人の男を見た。
「何しに來たのかね」
青年は默つてゐた。
「また、黙秘權かね」
「どう言へばいいのですか」
「いや、濟まない。つい、いつもの癖が出て」
會田は素直に認めて、青年を見た。
「荷物は?」
青年は微笑しながら、
「あれですか。もう要らなくなつたので賣りました」
と言つた。
「獵銃も?」
「みんなです」
「ふうん。で、君は銃を一度だけ撃つたと言つたが、獲物は捕れたのかね」
「獲れましたよ」
青年は滿足さうに頷いた。
さうして、霧の流れてゐるこの雰囲気を味はつてゐるかのやうであつた。
誰もが無言のまま、その霧の中に佇んでゐた。
老人の唄は、いつの間にか消えてゐた。
「では、僕はこれで」
どれほど經つたか、青年はさう言つて三人に背を向けて歩いて行つた。
霧の中へ消えて行く青年を見て、
「獲物が捕れたといふけれど、手には何も持つてゐないぢやないですか」
と新井が言つた。
「多分、青年はあの老人の唄でも撃ち落としたのだらう」
二人が唖然としたが、
「まさか!?」
と、また新井が言つた。
會田はもう新井の言葉に耳をかさずに、霧の中へ消えて行く青年に、羨望に近いものを感じながら呟いた。
「一體、何處へ行くといふのだらうか」
さうして、青年が霧の中へ姿を消し去つてしまつても、まるで霧の中からあの青年の撃つた銃聲が聞えでもするかのやうに、會田は遙か彼方に眼差しを投げかけてゐた。
會田は少し前まで、あの青年が鳥殺しの犯人だらうと思つてゐた。
幸福の鳥を捕まへるといふ事は、如何にも青年らしい行動だとも思つてゐた。
確かに、それが眞犯人の逮捕といふ、思ひがけない事件の鍵を握る事になつたのだが、しかし、それは結局、會田の青年に對する羨望からの發想で、如何にも老人的だと言へた。
さうして、會田はいま犯人を追ひ狙ふ狩人ではなく、あの青年に近い狩人として頻りに考へてゐた。
「歸りませう、會田さん」
二人が寒さうに言ひ出した。
「結局、判らんか」
會田は煙草を喫ひながら獨りごちた。
「えゝ? 何か言ひましたか」
「いや、別に」
會田は寺田に氣のない返事をして、深い霧の中を歩きながら、その疑問を心の中で繰返して自分に投げかけてゐた。
一體、あの青年は何を撃つたのであらうか……。
一九七三昭和四十八癸丑年卯月十日午前五時
後 記
此處の所、暫く小説らしきものを書いてゐなかつたが、やつとそれらしきものが出來た。
新作として書いたが、小説らしきものを書上げたのは、實に二年前に書いた戯曲『麺麭(パン)を蹈んだ娘』以來である。
この作品は副題を「續或傳説的山々にて」とある通り、初期の頃の作品である『傍觀者』と同系列の物語であり、發想も同じ頃であつて、書かれたのがそれよりも遲れて、今日に到つたといふ違ひだけである。
さういふ意味では、この作品は新作とはいへないのだが、先づ新作としておかう。
この作品は今までと違つて、可成(かなり)大衆小説的な要素を含ませてあると筆者は思つてゐるが、しかし、それでもそれはそれなりに滿足したものとして書けてゐるとも思つてゐる。
云つて見れば探偵小説のやうなものであるが、何か面白い書き方はないものかと思つてゐた頃の着想である。
けれども、それは大衆小説以上、探偵小説を模した以上のものとしても讀めるといふ自負がある事を、讀者としても感じてゐる。
杜斯退益夫斯基(ドストエフスキイ・1821-1881)の彼(か)の『罪と罰』も、始めて飜譯された時は探偵小説と見做(みな)されてゐたのだから。
とまれ今の筆者にとつて、一つの作品を書上げるといふ事が、非常な苦しみとなつてゐる。
一九七三昭和四十八癸丑(みづのとうし)卯月十三日午前一時過ぎ
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