2012年1月29日日曜日

戯曲『麺麭(パン)を蹈(ふ)んだ娘』(原作アンデルセン/大畑末吉譯)


     戯曲『麺麭(パン)を蹈()んだ娘』

前書きと配役


 これまでの處、戯曲はこの一作しか書いてゐないのだが、これは今から四十年も前に書かれたもので、世界通信網(インタアネツト)へ發表する爲に改めて讀直してみると、拙い部分があるものの筆者には感慨深いものがある。
 全部で五場に分かれてゐるので、それを順次に發表して行きたいと考へてゐるのだが、取不敢(とりあへず)、配役からといふ事で。

二〇一一年正月十九日午前五時



§



戯曲『麺麭(パン)を蹈()んだ娘』全五場
(原作アンデルセン/大畑末吉譯)


第一場『地上』
第二場『沼の底』
第三場『地獄』
第四場『天國』
第五場『再び地獄』


〈註、舞臺を上手・下手二つに分けて利用する。但し實演の際は四場を省いても構はない〉


     配役

語り(ナレイシヨン)
ニイナ
インゲル
ニイナの母
沼女
魔女
男A
男B
男C
男主人
女主人
村の男
アンデルセン
アインシユタイン
ナポレオン
ヒツトラア
孤城忍太郎





§



一場  地 上

ナレエシヨン   皆さん。
          みなさんは靴を汚さないやうに、
          と思つて麺麭を蹈んでしまつた娘が、
          それは可哀想な目に合つた、
          といふお話を御存知の事と思ひます。
          もう本にもなつてゐるのですから。
          でも、この劇は、
          その本が皆さんに讀まれる事を願つて、
          創られたものではありません。
          もう皆さんにはその本はをさな過ぎます。
          皆さんは、もう思考が出來ます。
          愛について考へる事が出來ます。
          (舞臺に少しづつ照明)
          その皆さんに、
          アンデルセンの、
          『麺麭を蹈んだ娘』
                   といふ童話を讀むやうにすすめても、
          過去を懷かしがるといふだけにしか過ぎません。
          それは決して惡い事ではないのですが、
          それではもう皆さんには、
          もの足らないと考へたのです。
          そこで皆さんに合ふやうに、
          少しばかり話を變へて見ました。
          (歌を口ずさみながらインゲル登場)
          おや、そんな事を言つてゐる内に、
          主人公のインゲルが出て來たやうです。
          皆さん、
          これからこの少女の引き起した事件を、
          見てみようではありませんか。
          (インゲルは大きな鞄を持つて舞臺中央まで歌を口ずさ
          んで行く。すると上手から)
 
ニイナ      インゲル! 待つてよ。インゲル。(走つて出る)
         インゲルは本當に足が早いのね。(息を咳込んで)

インゲル     まあ、ニイナ。
         お久しぶりね。
         何故、私が分つたの。
         何處へ行つて來たの。

ニイナ      何を言ふのよ。
         あたしは貴方が歸つて來るつていふから、驛まで迎へに
         行つて來たのよ。
         さうしたら、貴方はあたしにも氣がつかないで、
         さつさとバスに乘つてしまふんですもの。

インゲル     それは御免なさい。惡かつたわね。

ニイナ      エヘン、分れば良いのよ。
         尤も、
          あたしも最初は貴方に氣がつかなかつたのだけど。

インゲル     まあ!

ニイナ      だつて、
          貴方の格好(スタイル)がとつても素敵だつたんだもの。
         あたし、女優かと思つちやつたわ。

インゲル     さう、それなら良いわよ、許してあげる。

ニイナ      素敵なドレスね。本當(ほんたう)に素敵だわ。

インゲル     でせう(といつてスカアトの裾をつまんで踊る眞似)
         いま、都會でとつても流行(はや)つてゐるのよ、これ。

ニイナ      でも一寸、こんな田舎ではチンドン屋みたいね。

インゲル     いやだ、もう許して上げないから。

ニイナ      御免ごめん。

インゲル     ウフフ。

ニイナ      フフフフフ(二人とも輕(かる)く笑ふ)

インゲル     さあ、家に行きませうか。

ニイナ      さうね、歸りませう。
         歸つたら、あたしの所へもいらつしやいよ。

インゲル      えゝ、有難う、とかなんとか言つて、
          あなた、私のお土産が目當(めあて)なんでせう。

ニイナ       ばれたか。

インゲル      フフフ、ちやんとあるわよ、心配しなくても。

ニイナ       ウフツ、やつぱり催促はして見るものね。

インゲル      ちやつかりしてゐる事。さあ、これよ。
          (インゲル、大きな鞄の中から綺麗な小箱を出す)

ニイナ       まあ、なんでせう。

インゲル      開けて御覧なさいよ。

ニイナ       いいの?

インゲル      いいわよ。

ニイナ       なにかしら?
          (箱の紐を解いて、包装紙の中の箱の蓋を開けると、人
          形が飛び出して)
          キヤアツ!

インゲル      アハハハハハハ!

ニイナ       ひどい!
          ひどいひどい。
          びつくり箱ね。

インゲル      もつと中をちやんとご覧なさい。

ニイナ       まあツ、首飾り(ネツクレス)
          すごいわ。
          どうも有難う。
          (ニイナ、首にかけて見る)

インゲル      現金なものね。
          さあ、行きませう。
          (カバンを閉める時、大きな麺麭(パン)が見える)

ニイナ       まあ、大きな麺麭ね。

インゲル      さうなの、仏蘭西(フランス)麺麭よ。
          こんなもの都會ぢや、何處にでも賣つてゐるわよ。
          これね、
          私の勤めてゐる店の御主人が、
          お土産につてくれたの。
          でも、こんなもの土産になんか、なりはしないわ。
          私のところの御主人て、とても吝(ケチ)でせう。

ニイナ       そんな事はないわ。
          こんな田舎にすれば、
          その麺麭はすごく素晴らしく見えてよ。

インゲル      ふん、
          こんなもの、嵩張(かさば)つて荷物になるだけよ。
          途中で幾度捨てようかと思つたか知れやしないわ。

ニイナ       まあ、勿體ない事を。

インゲル      そんな事より、さあ、行きませう。
          (舞臺中央から下手へ移動する)

ニイナ       さうね。
          (ニイナ、首飾りにうつとりして、そればかりに氣が行
          つてしまふ)

インゲル      まあ、嫌だわ。

ニイナ       えゝ、どうしたの。

インゲル      水溜りよ。
          こんなところに水溜りがあるなんて、
          この間降つた雨ね。
          どうしませう。
          折角の日曜日を利用して歸つて來たつていふのに。
          それに服もおニユウなのに。
          でも、大した事はないかもね。
          (インゲル、スカアトをつまんで水溜りに入つて行かう
          とする)
          やつぱり駄目だわ。
ニイナ       止しませう。
          ここは水溜りではなくて、本當は沼なのよ。
          向こうにある古い道を行きませうよ。
          あたしも村の人達も、一寸遠廻りだけれど、
          いつも向かうの道を行くのよ。

インゲル      そんな事、面倒臭いわよ。
          それにこつちの方が近いんだもの。

ニイナ       でも、著()てゐるものが汚れてよ。

インゲル      任しておきなさいよ。
          えゝつと、何かいいものはないかしら。

ニイナ       ねえ、止しませうよ。

インゲル      何言つてゐるのよ。
          そんな風だから、いつまでも進歩がないのよ。
          何でもやつて見なければ。

ニイナ       駄目よ、誰もそんな事は考へないわ。
          だつて他にも道があるんだもの。

インゲル      まあ、狡(ずる)いのね。

ニイナ       狡くはないわよ。
          無駄に時間をつぶさないだけよ。

インゲル      ぢやあ、
          遠廻りをするのは、
          時間潰(つぶ)しぢやないツて言ふの。

ニイナ       それは……。

インゲル      良いから、いいから。
          (インゲル、何事かを思案して)
          さうだ、良いものがあつたわ。
          麺麭よ。

ニイナ       麺麭?

インゲル      さつき見せた、
          あの何の役にも立ちさうにもない麺麭よ。
          あの麺麭をこの上に置いて、
          その上を渡つて行くのよ。
          どう? 
          一寸した考へでせう。
          麺麭も役に立つ時があるのね。

ニイナ       いけないわ、勿體ないわよ。

インゲル      こんな美味しくもない麺麭なんか。
          いいのよ、
          食べても食べなくても。
          變りないわよ。

ニイナ       そんな事良くないわ、罰が當つてよ。

インゲル      いいから、見てらつしやいよ。
          (インゲル、麺麭を水溜りの上に置く)

ニイナ       (顏をそむけて)
          駄目よ。
          良くない事なのに。
          (インゲルはニイナの言ふ事に耳をかさない)

インゲル      これなら良いわ、よいしよツと!
          (インゲル、片足を麺麭の上に置き、殘つた片足もお
          もむろに麺麭の上に乗せると)
          キヤア、助けて!
          (照明がインゲルとニイナだけのスポツトになる)
          (インゲルは水の中へみるみる沈んで行く)

ニイナ       (驚いて)
          どうしませう。
          引張るツたつて、なんにもないわ。

インゲル      ニイナ! 助けて!

ニイナ       あゝ、だから言つたのに。
          どうしませう。

インゲル      だずげでえツ! 
          (インゲル、沼の中へ消える。
          この間にインゲル汚れた服に著替へる。
          猶、インゲルが沼へ沈む時は、徐々に膝を折つて行き、
          最後は床に寢る)
          (照明はそれとは逆に、インゲルから上にすると効果が
          えられるだらう)
          (奈落があれば問題はない)

ニイナ       あゝ、沈んでしまつたわ。
          待つて、今すぐに村の人達に報せて來るわ。
          本當に、えらい事になつてしまつたわ。
          あたしどうしませう。
          (ニイナが上手に走つて消える)
「暗轉」




§



二場 沼の底(暗轉のまま)


((やが)て上手に照明。
インゲルは床に倒れてゐる。
そこへ沼女がヌツと、怪物のやうに現れる)
 
沼  女      イツヒヒヒヒツ、
          どうやらまた馬鹿な娘が來たやうだね。
          でも、この娘はなかなか見所がありさうだよ。
          何しろ、この娘は自分が可愛い事を鼻にかけて、
          他の友達を馬鹿にしてゐたわね。
          さうして自分よりも綺麗な子を見ると、
          すぐに嫉妬をして惡口を言つてゐたものね。
          子供の頃はといへば、蟲の羽をちぎつたり、
          背中にピンを刺して悦んだり、
          貧しい人を見下し、
          お金持ちの子供としか遊ばなかつたんだものね。
          自分の貧しい姿にも氣がつかずにね。
          ヒツヒツヒツ!
          それ所か、都會へ出るといつて母親を困らせた擧句、
          許しが出ないと到頭家出までしたものね。
          こんな田舎で一生を送るのは嫌だわ、
          とかなんとか言つてね。
          それに折角、
          母親が心配の餘り、
          都會へ出る我が子を見送りに來たのに、
          母親の身形が汚らしいと散々惡態をついて、
          追ひ歸へしてしまつたものね。
          自分の母親がこんなに貧しいなんて、
          周りの皆に思はれたくなかつたんだからね。
          我慢ならなかつたんだ。
          しかも、この娘の凄い所は、
          その事をちつとも惡いと思はないで、
          みすぼらしい母親が癪に觸つただけなんだものねえ。
          この世に母一人、子一人だといふのにねえ。
          この子はもしかすると、
          魔女の試驗でさへも合格するかも知れないよ。
          でもね、魔女なんかにしてやりゃあしないよ。
          そんな事したら、
          儂(わし)らの仲間になつてしまふからね。
          儂らと同じ力を持つたんぢやあ、
          儂らが愉しめないからね。
          イツヒツヒツヒツヒ!
          樂しいねえ!
          (物音がして、沼女は笑ひを止める)
          おや、誰か來たやうだよ。
          誰だい!

魔  女      あたしだよ。
          (インゲルが目を覺まし、邉りの異變に怯えて上手の隅
          に行く)

沼  女      おや!

魔  女      久し振りぢやあないかい。

沼  女      さうだね。
          でもまだ千年程しか經つてゐないんぢやあないかね。

魔  女      それもさうだね、
          イツヒツヒツ!

沼  女      イツヒツヒツ!

魔  女      所で、例の頼もしい娘つ子は來なかつたかい。
          あたしやあ、あの娘が是非欲しいんだがね。

沼 女       なんだと思つたら、そんな用だつたのかい。
          まあお入りよ、そんな所に突立つてゐないでさ。

魔  女      さうかい。

沼  女      で、どうするんだい。
          まさか魔女にでもしてやるつもりぢやないんだらうね。

魔  女      なに言つてるのさ!
          今じやあ、魔女は多過ぎて、
          人數を五十人に制限するべきだ、
          といふ意見まである始末でね。
          出來の惡い魔女は、
          直ぐにその權利を剥奪されてしまふほどだよ。
          魔女になるにはね、東大の入試よりの難しいんだよ。

沼  女      フウ~ン、大變な御時世だねえ。

魔  女      全くさね。
          それで、その娘は貰へるのかね。
          もし貰へるのだつたら、
          廊下の飾りにでもしようと思ふんだがね。
          なあに、どのみち人間なんてものは、
          それ位の事にしか使ひものになりやあしないさね。

沼  女      さうだね、あんたのいふ通りさ。
          いいよ、持つてお行き!

魔  女      さうかい、濟まないね、ぢやあ。
          (インゲルを見つけて)
          おツ! もうお目覺めのやうだよ。
          丁度いいやね、手間が省けてね。
          さあ、あたしに着いておいで、分つたかい。
          (嫌がるインゲルに)
          なんだね、返事をしないか!
          (インゲル、怯えて逃げ腰)

インゲル      ハ、ハイ。
          あのう、ここは何處でせうか。

魔  女      アハハハハ! 馬鹿な娘ぢや。
          今頃、ここは何處、だとさ。

沼  女      全くだね、イツヒツヒツヒツ!
          ここはね、地獄へ通じる沼の底さね。

魔  女      お前はこれから地獄へ行くのだよ、あたしと一緒にね。

インゲル      えつ、い、嫌です、そんな恐い所へなんか行くのは。

魔  女      駄々を捏()ねるんぢやないよ。

沼  女      さうさね。

魔  女      言ふ事をお聞き! 
          聞かないと手足をもぎ取つて、
          針で背中を刺して標本にしつまふよ。
          さあ、おいで!
          (インゲルの手を取る)

インゲル      いやいや。
          (インゲル、手をふり拂つて泣き伏す)

沼  女      どうするね、困つた娘だよ。
          手を燒かせるのも、いい加減におし!

魔 女       いいさ、まあ。見ておいで。
          パピリキポレパラポロ! なんて事を言つちやつてね。
          (呪文。流行の言葉を使用して下さい)
          (暗転。インゲルの泣き聲だけが聞える)




§



三場 地獄(やがて下手のみ照明)


インゲル      (顏を上げて)
          お願ひ、地獄へ連れて行かないで。
          あつ!
          (周りを見て驚く)

魔  女      フフフ、どうだいあたしの魔法は。
          だけどね、こんな事ぐらゐで驚いちやいけないよ。

インゲル      いやいや、ね、私を地上へ返して。
          私は別に惡い事なんかしてゐないわ。
          ただ服を汚すのが嫌で、麺麭を蹈んだだけよ。
          それが惡い事なの?

魔  女      ヒツヒツ、惡い事じやあないよ。
          お前のした事は、それはそれは良い事さね。
          安心をしよ。
          だから魔女になれないまでも、
          廊下の飾りに使つて上げるんぢゃあないかい。

インゲル      そ、そんな!
          だつたら私を地上へ返すべきではないの。
          お願ひよ、返して!

魔  女      五月蠅(うるさ)いね、生意氣を言ふのぢやあないよ。
          暫(しばらく)く、この部屋に入つておいで。
          (インゲル、アツ、と言つて部屋に押し込まれる)
          (インゲルのみ照明。)
          (部屋は中央にあり、インゲルは倒れた儘、稍(やや)
          を擡(もた)げて)

インゲル      噫(あゝ)
          私は何故こんな所に來なければならないのかしら。
          ここは地獄だとお婆さんは言つたけれど、
          地獄なんてある筈はないわ。
          ニイナの悪戯ね、きつとさうよ。
          でも……。
          (上手が明るくなる)
          (上手には十體(じゆつたい)の人間が石像のやうに立
          ち、インゲルをじろじろ見てゐる)
          (インゲルは吃驚(びつくり)して)
          まあ、みんな變な目をして見るのね。
          私は美人だし、
          服も綺麗なものを著てゐるから、それで見るんだわ。
          きつとさうよ。
          (インゲル、氣取つてもでるのやうに振舞ふ)

男  A      フツフツ、さうさね。

インゲル      誰? 誰なの?

男  A      俺だよ。

インゲル      あなたは誰なの? 
          何處にゐるの?
          ここは何處なの?

男  A      俺は地上にゐた時は、トラツクの運轉手だつた。
          俺はそトラツクで人を轢()いちまつたのさ。
          俺は人殺しさ。
          だからこの地獄へ來たのさ。
          自業自得といふ奴さ。

インゲル      えゝつ、やつぱり、ここは地獄なの。

男  B      その通りよ。
          だけどよう、少し可笑しいだらう。
          地獄にはよう、
          針の山があつてよ、血の池があると思ふだらう。

男  A      さうだぜ。
          (蝿が飛んで皆の周りに來る)
          ここはその地獄でも、
          最も下らねえ事をした奴が來る所さ。
          あつちには針の山も血の池も、ちやんとあるぜ。
          俺はダンプカアで人を轢()いてしまつたんだがよ。
          まだ、そいつの息があつたから、
          ダンプカアをバツクさせて轢き殺したのさ。
          だつてよ、轢いた奴がもし生きてゐたとして見ねえ。
          そいつの面倒を、一生、
          (蝿がその男に叩き落とされる)
          見なきやならねえだらう。
          その點(てん)、殺しちまやあ、
          後腐れがねえつてものよ。

インゲル      まあ、酷(ひど)い!

男  A      まあ酷い、だと。
          まあ、まあ、まあ。
          ちえツ、上品ぶつてる姉ちやんよう。
          おめえがした事と、
          大して變(かは)りがねえんだぜ。

インゲル      なんですつて!
          なんて事を。
          圖々(づうづう)しいにも程があるわ。
          (蝿が生き返つて飛んで行く)
          良い事。
          私のした事はね、
          服を汚すのが嫌で、麺麭を蹈んだだけなのよ。
          こんな事ぐらゐで、地獄もないものだわ。

男  A      クククツ。

インゲル      何が可笑(をか)しいのよ。

男  A      クククツ、相棒よ。
          可笑しな事を言ひやがるぜ、この尼は。

男  B      ヒヒヒツ、全くよ。

男  C      アハツ、その通りだつせ、お姉ちやん。
          あんさんは、
          もしかすると魔女になれるかも知れまへんな。
          いやほんま。
          わてはな、墓場を掘り起こさうとしましてな。
          そん時、
          迂闊(うかつ)にも持つてゐたスコツプに足をとられても
          うてなあ。
          よろよろと、蹌踉(よろ)けたんですわ。
          それが間あ惡う、墓石ん所に、頭をぶつけましてな。
          それつ切り。
          そいで、
          氣のついた時には、ここにゐたツちゆう譯でんねん。
          アハツ、間の拔けた話でツしやろう、ほんまに。
          アハハツ。

男  B      俺あよ、抗爭中の組の幹部を刺殺してよ。
          そん時、後ろからバツサリと切られちまつた。
          そいでここへ來ちまつたツてえ譯さ。
          殺しちまつた組の幹部がゐねえ所をみると、
          奴あ、命拾いをしやがつたに違えねえ。
          まさか、あいつが天國といふ事は、あるめえからよ。

インゲル      みんな、貴方達がした事は、誰もが認める惡い事よ。
          私のした事と、一緒にしないで。

男 三 人      ヒヒヒツ。

男  B      まだ言つてやがるぜ。
          ここにゐる他の七人はよ、
          痴漢だとか、
          無錢飲食をしたとか、
          信號無視をしたとか、
          蟲をいぢめた奴らよ。
          こいつらはまだ惡い事を、
          いや、良い事をしてねえから、
          碌(ろく)に口もきかして貰へねえつて奴ばかりよ。
          俺見てえに人殺しでもやつてりやあ、
          ちつたあ、口ぐらゐはきかしてもらへたのによう。

インゲル      いいえ!
          私がした事は取るに足らない、全く馬鹿らしい事よ。
          貴方達のした事と比較されるなんて、
          お話にならないわ。

男  A      まあ、いいやね、お前の好きに思ふがいいさ。
          いづれ解る時が來らあ。
          おめえは、今は少しは動けるらしいが、
          その内俺と同じやうに、動けなくなつちまふんだぜ。
          俺達と同じ人形のやうな飾り物にね。
          この部屋はその爲にあるのさ。
          もしかすると、おめえさん、
          その口もきけなくなつちまふんぢやないかねえ。
          それに、後どれだけここにゐる事になるのやら。
          何年か、何十年か、何百年か、それとも何千年か。
          まあ、さうなつても氣を落しなさんなよ。
          ま、おめえならその氣使ひも要らねえかも知れねえがな。
          こんな事を言ふのも老婆心からでよ。
          俺達にやあ、この次には針の山が待つてゐるからな。
          おめえとも、おさらばよ。
          おや、もう來やがつたか。
          さうさう、
          おめえは自分が綺麗だから、
          俺達がおめえを見てゐると思つてゐるらしいが、
          さうぢやあ、ねえんだぜ。
          俺たちやあ、
          おめえのその格好が可笑しくつて、
          ニヤニヤ笑つてたんだぜ。
          (インゲル、自分の服の汚れに氣がつく)
          あんまり気取るなよな、姉ちやん。
          さあ、いよいよお迎へが來たやうだぜ、ぢやあな。
          (インゲルの照明だけが光つてゐて、他の男の照明が
          消える)

インゲル      (溜息を吐きながら)
          本當に嫌だわ。
          私のした事はそれほど惡い事なのかしら。
          私の服もこんなに汚れてしまつてゐるなんて、
          どうしませう。
          でも、まだ私の顏だけは綺麗だから良いわ。
          (本當は汚れてゐる)
          みんな恐さうな、嫌な顏をしてゐたけれど、
          ざまあ見ろで御座いますわ、だ。
          あら、嫌だわ。
          いつの間にか、
          はしたない言葉が移つてしまつたやうだわ。
          氣をつけなくつては。
          あゝ~あ、何か樂しい事はないかしら。
          一層の事、笑つてやらう。
          ハハハ、ヒヒヒ、フフフ、ヘヘヘ、ホホホ、
          ハ行變格ね。
          ククククク、ヒヤヒヤヒヤ。
          あゝ~あ、面白くない。
          それはさうと、今、何時頃かしら?
          お腹が空いたわ。
          何か食べるものはないかしら。
          (インゲル、邉(あた)りを見廻してゐるが、やがて靴の
          底に着いてゐる麺麭を見つけて)
          あつたわ。
          でも、こんな汚いものを食べる氣になんかならないわ。
          もつと美味しいものでなければ。
          あゝ~あ、お腹が減つたわ。
          何處かに美味しいものはないかしら。
          こんなにお腹が減つては、何にも出來ないわよ。
          全く忌々しい。
          えゝいツ、うるさい蝿ね。
          把まへて羽をむしつてしまふわよ。
          あゝ、堪らない。
          もう我慢できやしないわ。
          あツ、冷たい!
          何かしら。
          あツ、また。
          何處からかしら。
          (天を見る)
          すする泣くやうな聲が聞えるわ。
          誰でせう。
          (下手の出窓のやうな一段高い所から母が現れるのを照
          明が照らす。
          出窓がなければインゲルが坐つて母が立つてゐる)

母         生意氣だと、誰でも駄目になつてしまふのですよ。
          インゲルや!
          お前はそれを直さなかつたから、いけなかつたのですよ。
          (インゲル、下手へ行く)
          お母さんを、こんなに悲しがらせて……。
          (下手の照明が消え、上手の村の男に照明)

村の男       いえね、おらが森で薪を取つて來た歸りだども。
          ふと見ると、
          遠くの方にインゲルが沼を渡つて行くのを見たんだがね。
          あつといふ間に沼の底に沈んじまつてよう。
          ニイナが駈け出して行くのを、
          遠くから見てゐるだけだつただよ。
          んでもよ、おらは慌てて沼まで行つただ。
          だども、おらが行つた時はもう手遲れで、
          どうしようもなかつただ。
          あのインゲルは、いぢわるだつたからね。
          きつと、天罰でも下(くだ)つたんだべ。
          本當さ。
          インゲルは、
          昔、おらとこの鶏(にはとり)の羽を、
          全部むしつちまつたり、
          犬の鼻を洗濯バサミで挾んだりで、
          本當に性惡な娘だつただよ。
          (上手の照明が消え、下手のインゲルは上手に向ふ)

インゲル      なに言つてゐるのよ。
          あの小父(おぢ)さんだつて、
          信號無視した事があつたぢやないの。
          私は見たのよ、この目でしつかりと。
          それに他の人が信號無視すると、
          すぐに文句を言つて怒るのも、あの人だわ。
          (下手に照明、村の男がゐる)

村の男       インゲルは、惡い娘だつただよ。
          (下手の照明が消え、インゲルだけが照明に浮んでゐる)

村人の聲      インゲルは惡い娘だ。
          本當にさうだ。
          インゲルは惡い娘だ。
          本當の惡い娘だ。
          インゲルは惡い娘だ。
          インゲルは惡い娘。
          インゲルは、
          インゲルは、
          インゲルは……。

インゲル      止めてよ!
          (耳を押へながら下手へ走つて來ると聲が靜まり、
          上手の母に照明)

母         インゲルや。
          お前はお母さんを、こんなに悲しがらせて……。
          (上手の照明が消え、インゲルは上手へ行く)

インゲル      何がこんなに悲しがらせてよ、よ。
          あゝあ、私、
          生まれてなんか來なければ良かつたのだわ。
          一體(いつたい)
          誰が私に罰を與(あた)へるといふの。
          たつた、あれくらゐの事で、
          皆からこんなに惡く言はれたり、
          辛い目に合はされるなんて、ひどいわ!
          あんまりだわ。
          他にももつと惡い事をしてゐる人が、大勢ゐる筈よ。
          その人達こそ、罰を受けなければいけないんだわ。
          あゝ、苦しい。
          お腹もペコペコだわ。
          もう動くのも嫌!
          性がないわ。
          (と言つてインゲルは自分の靴の底についてゐる麺麭を
          見て)
          汚いけれど、これを食べませう。
          もう食べられるものだつたら、なんでも良いわ。
          ううん、取れないわね。
          お腹が減り過ぎて、これを取る力もないのかしら。
          (下手に男主人と女主人がテエブルの前に坐つてゐる)

男主人       あの娘は全く惡い事をしたもんだよ。

女主人       本當に、あのインゲルは神樣がお惠み下さつたものを、
          有難いとも思はずに足で蹈みつけたりしたんですからね。
          お慈悲の門は、いつになつたら開かれる事でせうかね。
          (下手の照明が消え、インゲルが下手に向ふ)

インゲル      ふん。
          それだつたら御主人も奧さんも、
          私をもつと叱つて下されば良かつたのよ。
          惡い所を直して、
          良い娘にしてくれれば良かつたんだわ。
          そんな不親切な人達と一緒にゐたら、
          誰でも良くなる譯はないんだわ。
          良くならうとしても、なれつこないんだわ。
          そら、また誰かが何か言つてゐる。

母の聲       インゲルや!
          お前は一向に反省の色がないんだね。
          お前は、
          お前のした事が、惡い事だとは思つていないのかい。

インゲル      誰が思ふものですか。
          (獨り言のやうに)

母の聲       そんな風だと、
          いつまで經つても地獄から拔け出す事なんか出來ません
          よ。
          お前には何が良い事で、何が惡い事なのか、
          分つてゐないのだね。

インゲル      一體、私がした事は、
          地球が引繰り返る程の惡い事なのかしら。
          第一、天國だとか地獄だとかいふのは、
          人間が勝手に考へたものなのに、
          生きてゐる時は思ひ通りに行かなくて、
          死後の世界だけが思つた通りになつてゐなくても良いの
          よ。
          それに、私が麺麭を蹈まずに服を汚したとしたら、
          どうなつてゐたといふのよ。
          ここへは來なくても良かつたつて言ふ?!
          それでも駄目なら、
          ニイナと一緒に、遠廻りをしてゐれば良かつたの。
          それに、もしも誰かが知らず識らずの内に、
          麺麭を蹈んづけてゐたとしたら、
          その場合は、
          どうなるのよ!?

(暗轉(あんてん))




§




四場 天國? 


貝多芬(ベエトオヴエン・1770-1827)の交響曲第九番の第三樂章が流れてゐる)


(舞臺は全照明。羽をつけた天使が椅子やテエブルを運び、喫茶店風のセツト。それが終ると暗轉(あんてん)



巴哈(バツハ・1685-1750)の「音樂の捧げもの」の中のトリオソナタの第一樂章。やがて中央に珈琲を飲みながら腰かけてゐる、安得仙(アンデルセン・1805-1875)氏と孤城忍太郎氏に照明)




孤城 忍太郎    アンデルセン氏は先程から何をそんなに、
          考へ込んでゐるのですか。

アンデルセン    (莫差特(モオツアルト・1756-1791)交響曲イ短調
          「オウデンセン」の音樂)
          えゝ、あゝこれは孤城忍太郎氏。           實はね、
          私は自分が死んでから自分の書いたものが世の中で、
          どうなつてゐるのかと思ひましてね。

孤城 忍太郎    ほう、それはよく解る話ですね。
          でも、私なんかは自分の作品が世に出る前に、
          自殺をしましたからね。

アンデルセン    自殺ですか。

孤城 忍太郎    えゝ。

アンデルセン    だつたら、よく天國へ來られましたね。

孤城 忍太郎    私も不思議に思つたんだが、
          よく考へれば何のことはない。
          天國は地獄よりも退屈だからで、
          私には却つてここの方が苦痛だ。
          神も、ちやんとそこの所は心得てゐるんだらう。

アンデルセン    うん、解るやうな氣がしますね。

孤城 忍太郎    さうでせう。
          しかし、アンデルセン氏の作品は、
          私が自殺をした時でも、まだ世に殘つてゐて、
          多くの人に讀まれてゐましたがね。

アンデルセン    さうですか。
          それは嬉しいな。
          でも、孤城氏が自殺されたのは、いつの事ですか。

孤城 忍太郎    私が死んだ時ですか。
          あれは確か、私が三十五歳の時でしたからね。
          でも、まだ貴方の作品は、
          あと二、三百年は殘りさうでしたがね。

アンデルセン    さうですか。ますます嬉しいな。

孤城 忍太郎    そんなに嬉しい事かな。
          私には自分の書いたものが幾ら後世に殘つても、
          一向に嬉しくはないんだが。
          それよりも永遠の若さと生命を約束してくれた方が、
          嬉しいんだがね。
          でなければ、生まれて來なかつたとかね。

アンデルセン    ふうん、孤城氏は厭世主義者(ペシミスト)ですね。

孤城 忍太郎    私は主義者ではない。 
          厭世的(ペシミステイツク)なだけです。
          私は厭世を主義になどはしません。

アンデルセン    それは孤城氏の事實においてでせう。
          私の場合は、さうではなかつたから。

          (貝多芬(ベエトオヴエン)の交響曲第三番「英雄」の一
          樂章が流れてゐる)
          (證明は二人を照らした儘、上手を照らす)

奈破崙(ナポレオン) それは余の場合も、さうだつた。
          (瓦格納(ワアグナア・1813-1883)の「ワルキユウレの飛
          行」の音樂。
          照明は三人を照らした儘、下手を照らし、徐々に全照。
          男は全部で五人ゐる)

希特勒(ヒトラア)  勿論、我の場合においても。

ナポレオン     余は、もはや地上に思ひ殘す事はない。

ヒトラア      その通り。
          我も我が鬪爭に悔いはない。
          だが、この間偶然に地上の事を見てゐると、
          二十世紀の後半に、
          我の僞者らしい奴が現れてゐるやうで、
          いや、僞者といふのは可笑しな言ひ方かも知れない。
          單に、我が生存の可能性が高いといふだけで、
          一般には生きてゐるに違ひないといふ風潮が強く、
          まるで寶(たから)捜しのやうにして、
          我を追ひ求めてゐたやうだが、
          あの後、もし生きてゐたとしたら、
          全く情けない事になつただらう。
          地上の人間なんて、馬鹿なものよ。
          尤も、我が偉大さを證據(しようこ)立てるのには、
          役立つたのだらうがね。
          今はこの天國の暮しに、大いに滿足してをるよ。
          こんなのんびり暮せるのは、ここだけであらう。
          眞逆(まさか)こんな生活が出來るとは、
          思ひも寄らなかつた。

ナポレオン     全く同感である。
          (モオツアルトの「フルウトとハアプの爲の協奏曲」の
          二樂章が流れ、上手に坐つてゐた、後ろ向きの老人が振
          り向いて)

愛因斯坦(アインシユタイン)
          私も同感ですよ。
          ここの生活は、大變(たいへん)快適ですね。
          私は、
          死んだらもうモオツアルトが、聽けないと思つてゐたら、
          ここにもあつたんですからね。

ヒトラア      何がだつて? アインシユタイン氏!

アインシユタイン  何がつて、音樂ですよ、モオツアルトのね。

ナポレオン     なんだ、そんな事か。

アンデルセン    ナポレオン氏には解らないでせう。
          貴方はベエトオベン氏に罵られていますからね。

ナポレオン     あれは、余が惡いのではない。
          ベエトオベンが余を誤解したのが惡いのぢや。

ヒトラア      成程! 

ナポレオン     彼のお蔭で、余もいい迷惑をしたもんだ。

ヒトラア      ぢやが、我が獨逸(ドイツ)民族を鼓舞する音樂は、
          瓦格納(ワアグナア)が一番ぢや。

アインシユタイン  私はこの天國にも音樂がある事を知つて、
          とても嬉しく思ひましたよ。
          この間ね、行つて來たんですよ、
          モオツアルトの『鎭魂歌』を演奏してゐましたからね。
          さうしましたら、
          モオツアルト自ら指揮をしてゐたぢやありませんか。
          私は嬉しくつてね、感激しました!

孤城 忍太郎    さうですか、
          それを聽けなかつたのは、非常に残念だつた。

アインシユタイン  あゝ、孤城氏は、巴哈(バツハ)が好みでしたね。

孤城 忍太郎    えゝ、私はモオツアルトのやうに、
          正直にはなれませんからね。

アインシユタイン  それは解らないではないが、
          美しいものは美しいと相對的にものを見てほしいですね。
          所で、
          孤城氏はもう天國では作品を書かれないんですか。

孤城 忍太郎    アンデルセン氏は、どうなんですか。

アンデルセン    私は書きますよ。
          今も童話が一作出來た所なんですがね。
          そこで一服しながら、地上ではどうなつてゐるのかなあ、
          何て考へてゐた所なんですよ。
          さうしたら、貴方達に話しかけられて……。

孤城 忍太郎    私は書きませんよ。
          だつて、ここには女性がゐないもの。

アンデルセン    女性の爲に書いてゐたんですか。

孤城 忍太郎    さうですとも。

アインシユタイン  さう言へば、ベエトオベン氏にこの間會つた時も、
          そんな事を言つてゐましたよ。
          彼も天國へ來てからは作曲してゐないやうでしたが、
          彼の場合は、孤城氏とは理由が違ふやうでしたね。
          でも、モオツアルト氏の場合は、
          お二人の事情とも違ふやうですね。
          彼はここでも、どんどん大作を作曲してゐますからね。
          モオツアルト氏の新曲を聽きましたか。
          矢張、天才ですね、
          地上で聽いた以上の、名曲中の名曲ばかりですよ。

孤城 忍太郎    モオツアルト氏は、それがたとへ天國でも地獄でも、
          作曲をし續けるでせう。
          何故なら、彼は作曲する事が、
          即ち、彼の存在そのもなんだから。

ヒトラア      さあ、我々には藝術家の氣持なんて、
          所詮は解りませんね。
          我々は、この儘で結構。

ナポレオン     左樣、左樣。

孤城 忍太郎    私は、
          天國には美人がゐるものとばかり思つてゐましたよ。

アインシユタイン  いや、女性がゐると、天國ではなくなりますよ。

孤城 忍太郎    その通りかも知れませんね。
          もしゐたら、
          地獄よりも酷い地上と同じになるのかも知れませんから
          ね。
          でも、女性ぐらゐは、矢張、ゐて欲しいですね。
          皆さんは、よく男ばかりで嫌になりませんね。

ナポレオン     女がゐても、嫌になりますよ。

孤城 忍太郎    嫌になり方が違ふでせう。
          ナポレオン氏はジョセフイン女史に、
          逢ひたくはありませんか。

ナポレオン     ゐなければゐなくても事足りますよ。
          何しろ、ここは子孫を作る必要がないので、
          肉體的な欲望はありませんからね。

孤城 忍太郎    何も、女性に肉體的な欲望を持たなくても良いのですよ。
          ここには地上のやうに、
          孤獨感や絶望はありませんからね。
          あるのは嬉しいといふ幸福の感情だけですからね。
          でも、私には物足りませんね。
          女性の爲なら、地獄へ行つてもいい。

ヒトラア      我々には、解りませんなあ。

全  員      (一同、頷きながら)うん、全く。

孤城 忍太郎    でも皆さん、一體、女性は何處にゐるんです?

全  員      さあツ?

孤城 忍太郎    ぢやあ、ここが天國だとどうして解つたんですか。

アインシユタイン  だつて、

ナポレオン     針の山も、

ヒトラア      血の池も、

アンデルセン    どれもないでせう。

孤城 忍太郎    それは佛教の話でせう。
          兔に角、皆さんも退屈だから、
          こんな愚にもつかない事を、
          もう何千年も經()つたのも氣づかずに、
          話續けてゐる譯ですよ。

全  員      えゝツ!!



(暗轉(あんてん))




§





第五場 再び地獄(上手の魔女に照明)


魔  女      ヒヒヒツ!
          どれどれ、
          あの娘つ子がどうなつたか、見てやらうかの。
          (魔女が下手に行く。下手のインゲルにも照明)
          おや、まだ元氣ぢやないか。
          困つたもんだねえ。
          そろそろ地獄の恐ろしさでも教へてやらうかねえ。
          さうすれば、少しはおとなしくなるぢやらう。
          (魔女、インゲルの部屋に入る)

インゲル      (インゲル、魔女に氣がついて)
          キヤア! わ、私をどうするつもりなの。
          地上に歸へしてくれるの?

魔  女      まだ、そんな事を言つてをるのか。
          どうやら、こんな所に閉ぢ込めたから、
          お前は本當の地獄の恐さが、解らないんぢやな。
          これからそれをたつぷり味ははせてやるからなう。
          覺悟をするんだね。

インゲル      いや! お願ひだからゆるし、

魔 女       えゝい、五月蠅い! 默つてあそこを見るんぢや。
          (魔女、上手を示す)
          (男ABCが苦しんでゐる聲と姿)
          (インゲルと魔女は上手に行く)

インゲル      まあ、可哀さう! 何もあそこまでしなくても。

魔  女      ふん、
          あいつらは儂(わし)の家の飾りにしてやると行つた時、
          納得したんぢやが、
          あまり長い時間ぢつとしてゐると、
          その事に飽きたんぢやらう。
          これなら血の池の方がましぢやと云ふもんでな。
          その通りにしてやつたら、この有樣ぢや。
          ヒツヒツヒツ、良い氣味ぢやて。

インゲル      あゝ、でも痛さう。
          もう、あの人たちの助かる方法はないのかしら。

魔  女      ない事もないがの。

インゲル      えゝ、それはどんな事?

魔  女      それはな、この地獄で……、
          ん? 
          儂がなんでそんな事をお前に教へないかんのぢや。

インゲル      ね、そんな意地惡をしないで、教へて。

魔  女      馬鹿め! 何を言ふか!

インゲル      後生だから、教へて下さい。

魔  女      まあ、そんなにいふのなら、
          教へてやらん事もないがなう。

インゲル      有難うございます。恩に著()ます。

魔  女      こんな事は起きつこないんぢやから。

インゲル      一體、なんです?

魔  女      それはな、この地獄で死ぬ事ぢや。
          さうすれば、天國へ行けると言はれてをるがなう。
          ぢやが、自殺では駄目なんぢや。
          それに責め殺されたとしても、
          ここでは直ぐに生き返つてしまふからなう。
          死ぬ事は出來んのぢやよ、ヒツ!
          もし、そんな事が起きれば、起きやしないがね。
          ふん、もし起きれば、それがどんな生物であつても、
          あたしやあ、滅んじまふよ。
          ヒツヒツヒツ、がつかりするんだね。
          この地獄が始まつて以来、
          まだそれをしたものはをらんのぢやよ、
          ヒツヒツ。
          お前も人の心配より、自分の事でも考へるのぢやな。
          今にあそこで身體(からだ)が動けなくなり、
          その口も利けなくなるんぢやからな。
          きつと、あの男達のやうに、
          我慢出來なくなるんぢやらうな。

インゲル      いやツ! 私を元の處へ歸へして。

魔  女      えゝい、五月蠅い!
          ここで、一人で好きなだけ喚くがいいさね。
          あたしや、用事があつて歸れないからね。
          おとなしくしとくんぢやよ。
          それぢやあね、
          ヒツヒツヒツヒツヒツ。
          (魔女が消える)

インゲル      あゝ、お願ひだから、私を獨りにしないで!
          (インゲルのみ照明。インゲル上手で落膽(らくたん)
          てゐる)
          (すると下手から母が現れて、下手に照明)

母         インゲルや。
          この間、近所の子共たちが來てね、
          お前の話をしてやりましたよ。
          するとその子らは、
          インゲルはもう沼から上がれないのと言つてね、
          御免なさい、
          と謝れば良いのにねつて心配してゐましたよ。
          それに、
          もう惡い事はしないといふ約束もして欲しいと言つて、
          皆泣いてゐましたよ。
          もしもお前が謝つて許してもらへたならば、
          その子の一番大切にしてゐる、
          人形のお家(うち)を上げるとも言つてましたよ。
          インゲルや。
          早く改心して、沼から上がつて來ておくれ。
          沼の底は、きつと寒からうにね。
          (母が消えて、インゲルは下手にゐる)
          (上手に年取つた女主人が、照明に浮ぶ。外は木枯し)

女主人       インゲルははどうしてゐるんでせう。
          一度、逢へたらと思ふのだけれど、何處にゐるのやら。
          捜す事も出來ないしねえ。
          もし逢へたら、
          この首卷(マフラア)を渡して上げたいんだがねえ。
          (女主人が消え、インゲルは上手)

インゲル      えゝ、さうよ。
          私を捜すなんて出來ないでせうね。
          だつて私がゐる所は、
          沼の底ではなくて、地獄なんですもの。
          地獄は暗くて寒くて恐いわ。
          でも、私は何をどのやうにして改心すれば、良いの。
          パンを蹈んだ事が惡かつた言つて謝れば、それで良いの。
          たつたそれだけで、私の罪とやらは消えるといふの?
          パンが大切だといふ事は、解つたわ。
          こんなに空腹に苛(さいな)まれたんですもの。
          だけど、著るものを汚さないといふのだつて大切だわ。
          そして、遠廻りをするよりしないといふ時間だつて、
          もつと大切な筈だわ。
          私はこの三つの大切なものの中で、
          食べ物の部分を捨てたのよ。
          服とパンと、どちらが大切かしら。
          パンがなければ、飢ゑ死をしてしまふでせう。
          でも、服がなければ、凍え死んでしまふから、
          最も大事な時間を別にして、
          この二つの内の、どちらを取れば、
          私がここへ來なくても良かつたと言ふの。
          誰にも解らないわ。
          それとも、どんな事をしても、
          私はここへ來なければならなかつたのかしら。
          (下手の母に照明。インゲル、もう追ひかけない)

母         さうかも知れないわね。
          きつと、インゲルといふ少女はゐなくて、
          インゲルは、
          私の心の中の惱みが作りだした少女かも知れない。
          恐らく
          總ての人間が、
          幼い頃に花を折つたり、
          小動物を虐めたに違ひないのよ。
          誰にでも、さういふ經驗がある筈よ。
          さういふものが、
          インゲルといふ少女になつて現れたに違ひないわ。
          あゝ、神樣!
          私もあのインゲルのやうに、
          偶(たま)にはあなたのお惠み下さいましたものを、
          蹈みつけにした事があつたかも知れません。
          有難いといふ感謝の氣持を忘れた事もあつたと思ひます。
          生意氣に、つんと澄まして歩いた事だつてあります。
          私の人生も、もう先が見えてゐます。
          こんな私でも、神樣!
          あなたは私に深いお惠みをかけて、
          暗い所へお沈ませにならないで、
          天國へお召し下さいますのでせうか?!
          どうぞ最後の時には、
          私をお見捨てにならないで下さいまし。
          あのインゲルと一緒に歸つて來たニイナも、
          十八歳といふ若さで、
          もう何十年も前に死んでしまひました。
          村の人達だつて、
          別に幸福でもない日々を、默々と生きてゐます。
          ニイナも村の人達も、
          パンを蹈まなかつたといふのに……。
          人間は、どうすれば幸福になれるのでせうか。
          私達は、インゲルです。
          誰もが、自分自身のインゲルといふ、
          惡い心を責めてゐるのです。
          私も人ごとのやうに、インゲルを責めました。
          自身が神樣のやうに、裁く力を持つてもゐないのに。
          あゝ、神樣!
          (下手の照明が消える)

インゲル      あゝ、お母樣!
          私は、惡い子だつたかも知れません。
          さうして、
          或は今、改心したやうに見せてゐるだけかも知れません。
          でも、お母樣の側へ行きたい。
          この気持ちだけは、本當です。
          お母樣こそ、
          私にとつては神樣のやうなものだつたのだわ。
          あゝ、でも私には、幾ら言はれても、
          何が良い事で、何が惡い事か解らないわ。
          さつきのダンプカアの運轉手や、ヤクザの人達よりも、
          私のした事の方が惡い事だと言へるの。
          まだ、それよりも増しだとは思へないの。
          それを一體、誰が決めるといふの。
          私でない事は確かね。
          こんな事になつたんだから。
          だからと言つて、世間の人の爲に、
          私の一生が左右されるのは嫌だわ。
          結局、私のした事の非難を、
          私が世間に負けないやうにする事かも知れないわ。
          私の命はわたしだけのものなんですもの。
          あゝ、私は誰に許しを得たら良いの。
          神樣に!
          村の人達に!
          お母樣に!
          それとも私自身に!
          ひよつとしたら、誰にも謝る必要はないの!
          パンにでも謝らうかしら!
          私達に入口はあつても、出口はないのだわ。
          (インゲル、舞臺をうろうろしながら下手へ行く)
          出口は死、だけなのよ!
          あつ! 
          蝿が、
          蝿が死んでゐる。
          (暫く、ぢつと見て、つついたり、やがて掌(てのひら)
          に乘せる)
          生き返りさうもないわ。
          地獄で死んだら、天國へ行くつて魔女が言つてたけど、
          本當かしら。
          (舞臺の裏から、ギヤア、といふ魔女の叫び)
          魔女が死んだのかしら。
          でも、魔女が死んだとしても、地獄がなくならない限り、
          私はここから拔け出せないんだわ。
          あゝ、
          私はどうすればいいの。
          パンは、私達が汗水を流して作つたものよ。
          でも、それを食べる時には、汗なんか流さないわ。
          私もパンを蹈んだ時、汗を流さなかつたわ。
          食べた事と、蹈んだ事の違ひが、
          何故、かうまで違ふのかしら。
          パンは、
          畫家(ぐわか)にとつては、繪の對象となる靜物だわ。
          パン屋にとつては商品だし、
          お客樣にとつては食料だわ。
          私にとつては、
          あの時のパンは、沼を渡る爲の足場だつたのよ。
          私のした事は、一體、誰から見ると惡い事になるの?
          總ての人にさうなのかしら?
          (寢臺(ベツド)に伏してゐる、上手の母に照明)

母         あゝ、神樣!
          私のインゲルが、
          あの心の中の沼に沈んでから、もう何十年と經ちました。
          いいえ、インゲルは人間が生存してゐた時から、
          あの亞當(アダム)と惠和(イヴ)が、
          禁斷の實を食べた時から、
          インゲルは沼の底にゐたのかも知れません。
          神樣!
          インゲルを、
          私達哀れな子羊を、お救ひ下さい。
          私は、もうあなたの許へ召されるでせう。
          あゝ、インゲルや!
          私は神樣の許へ召されたなら、
          ただ一筋に、インゲルの事を祈ります。
          もう私の目も見えなくなりました。
          苦しい事も、
          樂しい事も、
          みんなインゲルの態度にかかつてゐました。
          あゝ、神樣!
          インゲル!
          (母の照明が少しづつ消えて行く)
                       (力を振り絞るやうにして、上手へ行きながら)
インゲル      あゝ、お母樣!
          死なないで!
          死んぢやあ嫌!
          お母樣!
          神樣!
          私に、良い子になる方法を教へて下さいませ。
          良い子になる方法を教へて下さいましたら、
          私はそれに從ひますから。
          どうぞ、お母樣を、天國に召させて下さいませ。
          出來るものなら、
          もつと長生きをさせてやつて下さいませ。
          私はこの儘、
          この深い泥沼の世界にゐてもかまひませんから、
          せめて、お母樣を天國へ……。
          私は誰を責めるよりも、自分自身を責めるべきでした。
          良い事をしなければいけないのだと思ふと、
          惡い事の方がやり易かつたのです。
          でも、惡い事ばかりをしてゐると、
          今度は、良い事がしたくなります。
          良い事がしたいのです。
          もう今更、遲いかも知れませんでせうが……。
          それにしても、良い事と惡い事は、
          何處を基準にするのかしら。
          パンとは、一體なんでせうか。
          一體全體、パンとは……。
          もう私には、
          とてもお慈悲の門は開かれはしないのかしら。
          (暗轉)
          (やがて舞臺の中央の上に照明)
(舞臺中央のパン(籠に入れたあつても良い)を照らす)
ナレエシヨン    みなさん!
          どうでしたか!
          みなさんは、
          みなさんが知らず識らずの内に蹈んだパンに、
          氣がついてゐるでせうか。
          氣がついたら、そしてもしまだ蹈んでゐなかつたら、
          あるいは蹈んでゐない人がゐたら、
          早く、その人に教へて上げませう。
          それが蹈んだ人の、使命ででもあるのかも知れません。
          みなさん。
          インゲルにとつて、
          みなさんにとつて、
          パンとは、一體なんだつたのでせうか。
          パンとは?




  一九七一昭和四十六辛亥(かのとゐ)年霜月二日午前三時




§




後記 戯曲『麺麭(パン)を蹈んだ娘』


 去年の十一月の事だつた。
 私は弟から、

 「學校の文化祭で、組(クラス)の全員が劇をする事になつたんだ。兄貴、戯曲を書いてくれないか。組のみんなにどんな劇をするのかと言はれた時、孤城忍太郎の作品だと言つてしまつたんだ。頼むよ」

 といふやうな事を言はれた。


私もそれまで戯曲を書きたいとは思つてゐたが、書いた事がなかつたから、良い機會だと思つて、うつかり引受けてしまつたところ、安得仙(アンデルセン・1805-1875)の、

 『麺麭(パン)を蹈()んだ娘』

 を原作とする、といふ條件があつて、これが大變(たいへん)な苦痛だつた。


 その頃、私は借金に追はれて逃げ廻つてゐた。
そんな時だつたから、自分の書かなければならない小説にも手がつけられずに、それを仕上げる苦心をしたが、なかなか出來なかつた。
 

 學校にまで出かけて、放課後に弟の組の教室で原稿を書いて、その横で直ぐに清書(私の字が汚いから)してもらつて、一方では舞臺装置を作り、一方では劇の練習を進めてもらつてゐたが、明日が豫選(よせん)といふ時になつても、戯曲は半分も出來上がらなかつた。
 幸(さいは)ひ、それは中止になつたので良かつたが、結局、出來上がつたのは、文化祭が明日に控へるといふ日になつてしまつてゐた。


 生憎(あひにく)、私は當日に行かれなかつたが、弟の話だとかなりの成功を治めたやうであつた。
 それを訊いて、私は快く思つた。
 なにしろ、初めての依頼であつたのだから、恐らくこの気持ちは、ものを書いた人間でないと解つてもらへないだらうと思ふ。


 それから今日まで、この作品は整理出來ないままに放つておいたのだが、今、漸く書上げる事が出來て、當時を懷かしんでゐた。


 書直すに當つて、かなり書き加へたところも出た。
 例へば、第四場の、

『天國』

 などは、最初にはなかつたものだつた。
 が、これは大阪のT驛附近のアパアトで、ある女性と暮してゐて、二十七日から四月の一日までに書いたものだが、途中でその女性と別れた爲に出來上がつたものと言つてよかつた。
 アンデルセンを登場させる氣はあつたのだが、このやうなものになる、とは思つてもみなかつた。
 これは女性への思ひが與(あた)へた結果かも知れない。



 一九七二年昭和四十七壬子(みずのえね)年卯月五日
   横濱の大倉山にて記す。



§




續 後 書


言はせてもらへば、この作品はものの見方として「麺麭(パン)」が問題なのではなく、問題意識を持つ、といふ事が大事なのであるといふ事を示唆してゐる心算(つもり)である。
こんな事は言はでもがななのかも知れないが、これを言つてしまふ所が筆者の至らない部分なのだらう。


本格的に戯曲を書く勉強をした譯ではないので、不備な箇所が隨分ある事だらうが、それを言つてしまへば、發句や詩、小説や音樂にしても、先生に教はるといふ正式なものではなかつたから、何を今更と片づけるしかない。
却つて、誰かの弟子にならなくても、これぐらゐのもは書けるんだと開き直れば良いのではなからうか。


これ以外にもう書かないのかと言はれて、もし戯曲を書くとしたら、國木田獨歩(くにきだどくぽ・1871-1908)の、

『牛肉と馬鈴薯』

をなんとか出來ればと思つてゐるのと、それに續けて同じ作者の、

『運命論者』

ぐらゐを漠然と考へてゐる。
新作は、筆者には荷が重過ぎる。


二〇一一年正月二十二日午前三時二十分