2012年1月27日金曜日

摂取本(セツシボン・Absorb the book)



摂取本(セツシボン・Absorb the book)











一、戸川幸雄著『ヒトはなぜ助平になったか』



 私はものを考へるのが大好きで、あれこれと色々な事を思ひ浮べるのだが、專門の智識を澤山知つてゐる譯ではなく、適當に本を讀んで濟()ませてゐるが、小説なんかは讀むのが得意ではないので、辭典(じてん)のやうなものを眺めては滿足してゐたのだ。
 しかし、この本は一寸違つた。


作者も「あとがき」で言つてゐるやうに、興味本位のものではなく、例へば、胎教(たいけう)について左利きが多い(70)のは、壓倒的(あつたうてき)に多數の右利きの人が、ものを取つたりするのに便利だと思はれてゐたが、實(じつ)は心の鼓動の音を意識せずとも聞かせていたからの結果で、これは赤ん坊に良い音樂を聽()かせるといふのも、強(あなが)ち、笑へない行爲(かうゐ)である事が解つて面白く、

『助平』

に就いて、もつと考へ直さなければならないと思つたし、お父さんやお母さんが、

「我が子に與(あた)へる」

のに良い本だと思ふ。


また、肉體(にくたい)だけが大人になつてしまつた「ヒト」にも、一讀(いちどく)を薦めたい本である。
私も本來は『助平』なのだが、もつとさうなつても良い、と知る事が出來た。
イツヒツヒ!







§





 『ナンマイダ蹴り』
別名『二十年殺し』とも言はれてゐる「お菊」の必殺技を受けた、といふ「テツ」が出て來る面白い本がある。
 それは御存知!
 チヨオ~ン(拍子木の音)


二、はるき悦巳著『じゃりン子チエ(双葉社)



 以上述べたのは、もうとつくに連載は終つてしまつた作品の、單行本の二十八卷の中の一部で、『二十年殺し』とは、以下本作から引用すれば、

 『玉ちゃん  知りまへんのか、その蹴りがなんで二十年ころしていわれてるのか
        その蹴りは入ったあとなんともなしに普通に生活しとれますのやけどな、丁度それから二十年目に利き目が出てポックリいきますのや。

 チ  エ   ポ…
        ポックリて……
 
 お  菊   まともに聞きなはんな

 玉ちゃん   それが証拠にわたいの亭主、ナンマイダ蹴りを受けた丁度二十年目にポックリあの世にいきました

 チ  エ   エツ

 お  菊   ん?(本當は吹き出しは一つでチエとお菊が竝んでゐる)
        ちょっと待ちなはれ
        玉ちゃん、まさかそぉゆう話をテツに……

玉ちゃん   気の毒に……
       テツゆう男も昔ナンマイダ蹴りを受けたらしいですな(本文より拔粹)

 といふ經緯(いきさつ)で、チエちやんのパパ「テツ」は、放心状態になつてしまつたのである。


このやうな他愛もない大阪の下町の生活感を、表情豊かに描いて、現在全六十七巻で完結してゐるのだが、

『登場人物が常用する徹底的な大阪弁と、大人より子供がおとならしく、猫が人間よりも人間らしい』

と、現代を代表する二大戯作者の一人である、井上ひさし氏が絶賛するやうに、この作品は機智(ユウモア)に溢れてゐる。


さうして、何故、さうすればならないかを理論的には言へないが、どうすれば良いかを體(からだ)で表現出來るといふ經驗値(けいけんち)がある事を、例へば、論理的に野球をするイチローに對して、動物的感性で野球をした長嶋茂雄のやうな野性味を、この本を讀む事によつて納得するだらう。


(ついで)に言へば、もう一人の戯作者は野坂昭如氏である。
この作家は文體(ぶんたい)こそ戯作者風だが、書かれたものの内容を見る時、俳句を嗜(たしな)む作家らしく、詩人の悲しい目で人生を見つめてゐるやうだ。
それに比べて、井上ひさし氏は社會批評の目が鋭く、それを風刺化(カリカチユアライズ)する能力に長()けてゐると言へるだらう。
尤も、これは私が勝手に言つてゐるだけの事ではあるのだが。








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