作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
これは自作(オリジナル)の
『Motion1(JAZZ風に) 高秋美樹彦』
といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
映像は和歌山懸にある、
『熊野』
へ出かけた時のものです。
雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひです。
ない方が良いといふ讀者は、ご自由にどうぞ。
蝙蝠(かうもり)といふ動物がゐる。
哺乳類の中で、この動物ほど嫌はれてゐる動物も珍(めづら)しい。
狐などは、西洋でも日本でもまだ愛嬌があるし、惡役をしても、何處(どこ)か間の拔けた所があるか、でなければ徹底的に冷酷(クウル)である。
しかし、蝙蝠となると、その姿かたちの感じの陰險な所爲(せゐ)もあるかも知れないが、非常に嫌はれてゐる。
筆者自身は、その事に同情的である。
けれども、それは何も筆者が蝙蝠を好きだから、といふ譯では毛頭ない。
では、何が筆者に蝙蝠を同情させたのかといふと、世界の寓話集の中に、蝙蝠がどうして夜中に飛廻(とびまは)るやうになつたのかといふ話があつて、それが筆者の氣を惹(ひ)いたからである。
それは、中國の昔話に、
「昔、太陽が二つあつて、人々の休まる時がないので、勇気のある若者が二つの太陽の内の一つを弓で殺してしまひ、夜といふ安らぎの世界が訪れたといふのである。さうして、今でもその死んだ太陽は、月となつて地球の周りを廻つてゐる」
といふやうな、現在の状況から過去に向つて空想を廣げるといふ按配(あんばい)で、聊(いささ)か故事(こじ)つけに近いが、
「成程」
と、思はない事もないといふぐらゐの話である。
蝙蝠の話の方も、ある時、動物界に鳥類と獣たちの戰爭が起こつて、鳥が蝙蝠を捕まへて殺さうとすると、
「私は獣のやうに見えますが、このやうに空を飛べるのですから、あなた方と同族ですよ」
と蝙蝠は言ひ、また、獣たちに見つかると、
「私は空を飛びこそすれ、このやうに鼠(ネズミ)の同族で、勿論、獣ですよ」
と言つて、どちらにもつかづに、兩方から逃れて戰爭には參加しなかつた。
筆者の思ひ違ひかも知れないが、密告のあつた時に蝙蝠を打ちつけるのは、そんな理由からであらうか。
所が、長い年月が經(た)つ内に、お互ひの中から平和を唱へ出すものが現れ、鳥と獣の間に平和不可侵條約が結ばれる事となつた。
さうして、平和の日々が續くうちに、お互ひの武勇傳に花を咲かせ、鳥は獣を誉め、獣は鳥の勇氣を誉めるといふ、謂(い)はば外交辭令を交はしてゐた。
その時、運惡く蝙蝠の事が話題に上つた。
忽ち、蝙蝠のした事がばれてしまつた。
平和になつた鳥と獣の世界では、今では「徳」といふものを重んじ、正義を振り翳(かざ)してゐた。
「鳥獣の恥だ!」
といふものが現れた。
「鳥獣の世界から追放しよう!」
といふものまで現れた。
狐などは、
「蝙蝠の存在は惡だ」
とさへ言ひ出す始末だつた。
かうして、蝙蝠は鳥獣の活動する晝(ひる)は洞窟で身を隱(かく)し、鳥獣の眠つてゐる夜中にしか活動できなくなつた、といふのである。
これは寓話であるから、少しも面白くない。
希臘(ギリシア)神話などは、こんなのとは違つてひどく詩的である。
例へば、
「アラクネといふ機織(はたお)りのうまい娘がゐたが、彼女は次第に慢心して、神にも負けないとさへ言ひ觸(ふ)らした。
そこで神と腕比べをする事になつた。
しかし、女神アテネの織つた布と、アラクネの織つた布とは、お互ひ見分けがつかない程、二つの布は素晴しい出來映えだつた。
だが、女神アテネはアラクネを祝福せずに、女の嫉妬心から彼女の織つた布を、ずたずたにしてしまつた。
アラクネはその爲に首を括(くく)つて死んだ。
その時、始めて女神アテネの怒りが解け、彼女を一匹の蜘蛛にした。
さうして、巧みに織る技だけは彼女に殘されたのだ」
といふのである。
こんな具合に、先に述べた寓話とは比較にならないぐらゐ詩的であるが、勿論、これだとて神のひどい仕打ちには、納得の行く譯のものではない。
筆者は、どちらかと言へば後の方の話を愛するが、それだけを言つたのでは話にならない。
一體(いつたい)、隨筆といふものは讀んで字の如く、筆に隨(したが)つて書くものなのだらうが、もし本當(ほんたう)にその通りにするのならば、この話もここまでである。
しかし、筆者はさういふ事を好まない。
そこで、例の蝙蝠の話になるが、その中でひどく腹の立つ事があるので述べて見たい。
それは、なぜ蝙蝠だけをこのやうに惡くいふのか、といふ事である。
蝙蝠は戰爭に卷込まれたくなくて、どちらにも味方と思はせただけである。
あるいは、殺されたくなくて嘘を吐いたのだとしても、これは何も蝙蝠だけに限つた事ではなく、それを卑怯といふには及ばないだらう。
蝙蝠は平和主義者なのである。
それをお互ひの都合で平和になつたからと言つて、蝙蝠だけを責めるのはどういふものであらうか。
元來、勝手に始めた鳥と獣の戰爭であらう。
それも、恐らく下らない理由から始まつたに違ひないのである。
そんなものに卷込まれるのは、誰だつて御免である。
さうして、今度は平和になると、自分達の非を認めず、蝙蝠だけを惡いと言ふ。
戰爭の爲に、どれだけ蝙蝠が迷惑したかも考へずに……。
蝙蝠こそ、良い迷惑である。
鳥と獣が勝手に始め、また、平和にしたからと云つて、自らの行爲(かうゐ)に目を瞑(つぶ)り、蝙蝠だけを責めてゐるのでは、多數決の缺點(けつてん)を曝(さら)け出したも良い所である。
惡いのは、戰爭をしてゐたもの達である。
それを、今度は平和になつたからと言つて、その時に戰爭を逃げ出した蝙蝠が惡い、といふのはお門違ひである。
もう一度言へば、平和を亂(みだ)したのは、鳥と獣たちなのである。
かりに蝙蝠があの時に、鳥か獣に捕まつて殺されてしまひ、平和になつてから名誉の稱號(しやうがう)を與(あた)へられたからと云つて、一體、何になるといふのか。
これ程、後味の惡い話もないものである。
蝙蝠が夜になつて飛廻るのは、なにも鳥や獣達に追ひ出されたのではあるまい。
蝙蝠が夜中に超然と飛廻るのは、恐らく鳥獣不信になつて、昔の人間でいふ所の、山に籠つたのであらう。
世捨人になつたか、それとも、宛然(ゑんぜん)佛陀(ぶつだ)の悟りを開いたのかも知れない。
しかし、今では蝙蝠は夜にまで姿を見せなくなつた。
蝙蝠は、今度は人類を見放したのだらうか……。
一九七三年昭和四十八癸丑(みづのとうし)年極月十日午前三時
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