2011年12月8日木曜日

電腦(コンピユウタア)に於ける文字表記(もじへうき)の事

   電腦(コンピユウタア)に於ける文字表記(もじへうき)の事



 この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
 これは巴哈(バツハ(Bach)1685-1750)

 『ASSACAGLIA(パツサカリア)とフウガ(Fugue) BWV582

 といふ曲で、音源は「YAMAHA QY100」で打込みました。

 映像は京都に
出かけた時、

龍安寺

 を撮影したものです。

 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、ご自由にどうぞ。









   電腦(コンピユウタア)に於ける文字表記(もじへうき)の事


 電腦(コンピユウタア)で文字を表記(へうき)するに當(あた)つて、『正字』と『假名遣(かなづかひ)』に就()いて氣がついた事を述べてみたいと思ふ。

 
先づ、漢字の表記には大まかにいふと、『正字』と『新字體(しんじたい)』との二種類があつて、この他に『異體(いたい)文字』などもあるのだが、話が複雜になるのでそれは省く事にして、取敢(とりあ)へず『正字』に就いて述べれば、

 『正字』とは昔からの點劃(てんくわく)の正しい形の文字で、略字・俗字のやうな正字から作られた新字體に對(たい)していふ言葉(大辭林(だいじりん)

 であつて、所謂(いはゆる)、口語文を新假名遣で記録する場合には、新字體を使用するだけで濟()むので、それ程大きな問題は起きないやうに考へられてゐるが、それでは、それ以前の明治期の歴史的假名遣の頃はどうだつたのかといふと、口語文でも『正字』で表記されてゐたのは言ふまでもない譯で、無論、その頃には漢字の改變(かいへん)がなかつたのだから、當然(たうぜん)といへば當然なのだが……。


 それに比べて、文語文を歴史的假名遣で表記する場合には、特に電腦(コンピユウタア)に記録する時、例へば、「源氏物語」や「枕草紙」、或いは芭蕉の俳諧や「平家物語」などを書き寫(うつ)さうとすると、電腦(コンピユウタア)には『正字』の漢字が不足してゐるので、新字體を利用するより外はなく、書く側は勿論、讀()む側にも、この文章のやうに「正字』と新字體が混淆(こんかう)された状態で提示される事になるのである。
 これは、釦(ボタン)を掛け違へたまま服を著()てゐるやうで、なんだか氣持が惡い事この上ないのである。


 そこで、ここで總ての『正字』に就いて語る譯にはいかないが、どのやうな漢字がないかといふのを大凡(おほよそ)で述べれば、
 「情(なさけ)
 といふ新字體の漢字は、
 「(立心偏(りつしんべん)」と、「青」
 で構成されてゐて、これが、『正字』だと、
 「(立心偏)」と「青」
 なのだが、この文字は電腦(コンピユウタア)には登録されてゐないので、ここに表示する譯にはいかないのは殘念だが、
 「青(あを)
 の部分が新字體では、
 「月」
 になつてゐて、『正字』の場合は
 「円(ゑん)
 になつてゐるといふ違ひが指摘出來るだらう。


 この他にも、
 「仏(ほとけ)
 といふ新字體の漢字は、
 「イ(人偏(にんべん)」と「厶()
 で構成され、これが『正字』の場合だと、
 「佛(ほとけ)
 と表記されて、
 「イ(人偏(にんべん)」と「弗(ふつ)
 と書かれ、これは「沸()かす」といふ場合の、
 「沸(ふつ)
 を『正字』で書いた時に、新字體では、
 「三水偏(さんずいへん)」と「厶()
 で書かれるのかと思ふと、さうではなく、同じやうに、
 「沸」
 と表記されてしまふのである。
 つまり、新字體と『正字』とが違ふ場合もあれば、同じ字體の場合もあるといふ事になつて、
 「仏」
 といふ新字體の『正字』が、
 「佛」
 であると知らなければ、
 「沸」
 といふ文字が、何故、
 「三水偏」と「厶」
 で書かれないのか、といふ事に對(たい)する疑問も、生じない筈のものであり、下手をすると、これら二つの、
 「仏・佛」と「沸」
 は、全く別の性質の文字で、まさか同じ「旁(つくり)」の漢字であるとは、思ひも及ばない事になつてしまふのである。


 さうして、これは新字體の、
 「発」
 といふ文字が、『正字』では、
 「發」
 となり、「三水偏」の「旁」を加へて、
 「溌」
 『正字』では、
 「潑」
 となるが、これ以外にも、「酉(ひのとり)(酉偏(とりへん))」の新字體、
 「醗」
 と、『正字』の、
 「醱」
 或いは新字體の、
 「廃(はい)
 が『正字』の場合には、
 「廢(はい)
 となり、「病垂(やまひたれ)」の、
 「癈」
 や、「手偏(てへん)」の、
 「撥(はつ)
 などには「発」の旁がなく、「發」の旁だけしかないのである。


 更に、これと似たやうな、
 「近(きん)
 といふ漢字の場合と、
 「辷(すべる)
 といふ『正字』の場合の、
 「之繞(しんわう)
 に「、((てん))」が一つある新字體の場合と、二つある『正字』との場合で も、表記が統一されてゐないので、
 「仏・佛」や「沸」
 の時と似たやうな問題が起きてしまふが、「、()」が一つか二つか、といふ選擇肢(せんたくし)だけでは、流石(さすが)に別の性質の文字群だとは考へ難(にく)いのが、僅(わづ)かに救ひだと言へるだらう。


 さうして新字體の、
 「殺(さつ)
 といふ漢字が十劃(じつくわく)であるのに比べて、『正字』では、「メ」と「木」の間に「、((てん))」があつて、一劃(いちくわく)增えて十一劃(じふいつくわく)になつてゐるし、又、
 「者」
 といふ新字體の漢字も八劃(はつくわかく)であるが、『正字』になると「土」と「日」の間に「、((てん))」が附いて九劃(きうくわく)になつてしまふのである。


 これ以外にも、
「戻(るい)
「類(るい)
 などがあつて、これは、
「大」と「犬」
 の違ひなのだが、これで本當に劃數(くわくすう)に依()る姓名判斷は、有効なのかと思つてしまふ程である。


 さて、漢字に關(くわん)してはこれ以外に『字形』の問題もあつて、
 「伴(はん)・畔(はん)
 例へば、この二つの文字と、
 「絆(きづな)・袢(はん)
 この二つの文字の「旁(つくり)」は、本來同じ字形であるべき筈のものであるのだが、見た通り違つてゐて、こんな状態で放り出された事を不合理だとは思はれないだらうか。


 では、何故このやうな問題が發生してしまつたかといふと、太平洋戰爭が終つてから、「当用漢字」といふ漢字制限が政府から施行されて、それは無制限に漢字を使用するのは、兒童(じどう)の勉強の負擔(ふたん)になるといふ理由からで、この時、序(つい)でに「当用漢字」に選ばれた漢字の「字形」さへも、これも同じく漢字の記憶に要する時間を輕減(けいげん)する爲に、と稱(しよう)して改變(かいへん)してしまつたからである。


 この時に、「当用漢字」以外の文字も「偏(へん)」と「旁(つくり)」や「字形」を統一しておいたならば、混亂(こんらん)のないすつきりしたものになつてゐたものと思はれるが、それには手をつけなかつたので、このやうな状況に陷(おちい)つたのであり、「当用漢字」は、やがて文字の不足を補(おぎな)ふ爲(ため)に、數(かず)を増やして「常用漢字」へと變遷(へんせん)して、今日に到つてゐる。
 全く呆れ果てた事で、それならば最初から文字の制限などしなければ良かつたのである。
 古來から、人民を從はせる道具として文字を統制するのは、權力者の常套手段であつたのだが、民主主義のこの時代に、漢字統制もないのではなからうか。


 そこで提案したい事があるのだが、電腦(コンピユウタア)に關して、新字體は殘した儘でもかまはないから、せめて「偏」と「旁」や「字形」の統一された、『正字』は全て網羅して、「字形」も舊(きう)に復した文字を裝備しておいてもらへないだらうか。


 と云ふのも、
 「無制限に漢字を使用させてもいいのか」
 といふ意見に、真向(まつか)うから反對(はんたい)しなければならない、と作者は考へるからで、

 「何故、無制限に漢字を使用させてはいけないのか」

 が分らず、又、誰が、

 「使用させてもいいのか」
  と問ふのかも分らず、更に、

 「無制限に」

 といふ言葉を隱れ蓑にして、

 「そんな事をされては大變(だいへん)だ」

 といふ雰圍氣(ふんゐき)を醸(かも)し出して、漢字を制限しようとしてゐるかのやうに思はれるからである。
 大體(だいたい)、「無制限」と言つたところで、漢字は無制限にある譯ではなくて、有限のものなのである。
 最大でも五萬字ぐらゐのものであらう。
 これらの漢字を使用するしないは、個人の自由だから別にして、電腦(コンピユウタア)には總(すべ)てを登録しておくべきだ、と考へるのである。


 といふのも、簡易な漢字辭典を編纂(へんさん)しやうとするなら仕方がないが、出來得る限り完全な形で完成させやうと思つたら、この漢字は使用する瀕度が少ないので、と言つて、それらの漢字を省略したりはしないと思ふからである。


 次に、『假名遣』に就いて述べると、これには『歴史的假名遣』と『現代假名遣』とがあつて、電腦(コンピユウタア)には、この二つの内の一つである『現代假名遣』しか、普通は使用出來ない筈で、『歴史的假名遣』を利用したければ、作者のやうに「辭書登録)」で補つてからでないと作動せず、さうでなければ、後は一語『現代假名遣』で表記して、いちいち言葉を『歴史的假名遣』に變()へて、文章を作成していくしかないのである。


 一體(いつたい)、『歴史的假名遣』と『現代假名遣』との違ひは、基本的に文字を變換(へんくわん)する時、その言葉を「假名(かな)」か「羅馬字(ロオマじ)」で變換するのだが、その時に、

 『ざ行』と『だ行』、
 『う』と『お』

 の使ひ分けが理解出來ないと、うまく變換されなくて、それは例へば『現代假名遣』の、

 「氷(こおり)

 の「お」は、何故「う」ではないのか、

 「高利(こうり)
 「行李(こうり)
 「小賣(こうり)

 の「う」は、何故「お」ではなくて「う」なのかを承知してゐないと、電腦(コンピユウタア)の文字を叩く事さへ出來ないのであり、『現代假名遣』の、

 「じやあ」

 が『ざ行(ぎやう)』の「じ」で、

 「ぢやあ」

 のやうに、『歴史的假名遣』だと『だ行(ぎやう)』の「ぢ」になるのは、どうしてなのかと言ふと、それは、

 「氷(こほり)

 が『歴史的假名遣』で、

 「こほり」と表記し、
 「ほ」は「お」

 だと、『現代假名遣』で制定されたからなのであり、

 「高利(かうり)・行李(かうり)・小賣(こうり)

 と表記された『歴史的假名遣』の「う」は、その儘『現代假名遣』に殘したからで、これでは『歴史的假名遣』を知らなければ、説明さへ出來ないといふ事になつてしまふ。


 さうして、次の場合の、

 「ぢやあ」

 は「では」の轉(てん)じたもので、『歴史的假名遣』だと、

 「だ行」

 だけで濟むが、『現代假名遣』になると、

 「ざ行」と「だ行」

 に跨(またが)つて活用しなければならない羽目になつて、言葉が亂(みだ)れて仕舞ふのである。


 それ以外でも、

 「胡瓜(きうり)

 は『現代假名遣』では、「きゅうり」と平假名(ひらかな)で表記し、

 「柳生(やぎう)

 は「やぎゅう」となり、

 「桐生(きりう)
 「氣流(きりう)

 は「きりゅう」と書()かれてしまふ。
 さうして、このやうに打ち込まなければ、電腦(コンピユウタア)は文字の變換をしてくれないのである。


 然し、この小文字で表記される「ゆ」は、耳で聞くと確かにさう聞えるが、これは幽音で、『歴史的假名遣』では、

 「胡瓜(きうり)・柳生(やぎう)・桐生(きりう)・氣流(きりう)

 と表記してゐて、「ゆ」といふ文字は何處(どこ)にも存在してゐない。
 それも當然(たうぜん)の話で、これらの「ゆ」の小文字を表記する『現代仮名遣』を、二つに分割すると、

 「胡()」と「瓜(うり)
 「柳(やぎ)」と「生()
 「桐(きり)」と「生()

 このやうに、何處にも「ゆ」といふ小文字(こもじ)はなくて、だからこそ、これを幽音といふ所以(ゆゑん)であるのだが、耳に聞えるやうに表記するといふのは、極めて難しい行爲で、それゆゑに『假名遣』といふ表記法が必要になるのである。
 これと同じ事が、殘しておいた、

 「氣()」と「流(りう)

 の「流(りう)」にも言へて、

 「りう」

 と發音(はつおん)しても、耳が裏切つて「ゆ」の音を聞いてしまふのであり、『假名遣』はかう言つた事にゆつくりと對應(たいおう)して來て、論理的に許容出來るものは取り入れ、この「ゆ」のやうに、言語學上納得出來ないものは拒否して來たのである。


 それが政治家と小説家、民族學者などによつて、言語學者・國語學者もゐない儘に、『現代假名遣』の施行といふ形によつて崩潰(ほうくわい)してしまつたのは、返す返すも殘念である。
 そこで、『歴史的假名遣』を電腦(コンピユウタア)で作動させる爲には、『現代假名遣』の「五段活用」を「四段活用」に改める事と、『は行動詞』を追加するだけでも、隨分樂(らく)に操作が出來るものと思はれるので、この二つの『假名遣』を、隨意に切り替へて使へるやうにしてもらへれば有難ひのである。


 『假名遣』に關しては、この他に「字音假名遣」といふのがあつて、これは漢字に假名を當()てる時の書き分けをいふのだが、それは例へば、この文章がそれに當つてゐる。
 それと筆記體に關して書き上げられた文章の文體(ぶんたい)を、所謂(いはゆる)、字形書体(フオント)を「行書體」にした時、『正字』の中で不足してゐる漢字を、「環境依存文字」として作成された漢字群があるのだが、これは行書體に變換されないので、「環境依存文字」を使用出來るやうに、その問題も解決されれば良いと願つてゐる。


 ところで、登録されてゐない『正字』は、「外字」で作成すればいいではないか、と思はれる方がゐるかも知れないが、さうすると電網(インタアネツト)で公表した時に、送信側は兔も角、受信側にはその文字が反映されず、見てもらふ爲には特別な手續きを經()なければならないので、その意味では、「環境依存文字」と同じで、「文字化け」を生じさせない爲にも、最初から電脳(コンピユウタア)に登録されてゐたならば、問題は一氣に解決される事になるのである。


 最後に、これまで述べた『正字』に對(たい)して、電腦(コンピユウタア)に登録されてゐないものだと思つてゐたが、若しかしたら作者の見落としがあつて、既に存在してゐるものもあるかも知れないので、その時はお詫びを申し上げると共に、他にも至らぬところが多々あるかと思はれるので、多くの方のご敎授を仰ぎたいと考へてゐる次第である。